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【将棋クロニクル】戦争の辛苦を経て1946年6月『将棋世界』誌再刊

松本博文将棋ライター
(記事中の写真撮影:筆者)

 雑誌『将棋世界』は1937年、戦前の大出版社である博文館から創刊されました。往時、同社からは『文章世界』『少女世界』『冒険世界』など、「世界」の名がつく雑誌はいくつも発行されています。

『将棋世界』は1940年、発行元は博文館から将棋大成会(現在の日本将棋連盟の前身)に移ります。以来、大成会、連盟の機関誌として発行され続け、現在にまで至っています。現在も将棋業界内で単に「世界」といえば、この『将棋世界』誌のことを差します。

『将棋世界』は創刊号(1937年10月号)から数えて、現在発売中の2022年9月号まで通巻で999号。次の10月号で通巻1000号となります。その歩みはそちらで詳しく振り返られることでしょう。

 将棋界は浮世離れしたところのようにも見えます。しかし、そこはやはり現実世界の影響を大きく受ける時代もあります。

 戦時色が濃くなった頃、『将棋世界』の表紙には「国威発揚」の文字が記されました。

 200ページを超えるボリュームだった『将棋世界』誌は次第に薄くなっていき、ついには休刊を余儀なくされます。

 将棋界の多くの先人たちもまた、戦争では悲惨な目に遭いました。そして1945年8月15日、日本は敗戦の日を迎えます。

 戦後の将棋界は木村義雄名人(のちに14世名人、1905-86)を中心に復興が始まりした。

 終戦直後のことを、加藤治郎八段(のちに名誉九段、1910-96)は次のように語っています。

戦後、幹事として私が最初に取り組んだ仕事は、対局場の確保とともに、機関誌『将棋世界』を復刊することであった。戦局の激化により、大成会が開店休業状態になるとともに、『将棋世界』も休刊となっていたのである。「このままでは棋界の歴史に空白ができる。早く復刊すべきだ」という棋界の有識者の声に、将棋大成会も本腰を入れることになり、幹事の私が編集長を受け持つことになった。

出典:加藤治郎『昭和のコマおと』

 当時のスタッフは紙の手当や資金繰り担当の北楯修哉六段(のちに九段、1912-97)。販売担当の奥野基芳五段(1905-85)。編集担当の山川次彦四段(1920-94)の三人でした。

とにかく当時は紙の確保がむずかしく、北楯君と私はあらゆるツテを頼っては出版社、製紙会社などを訪れ、紙を分けてもらうように頼み込む毎日だった。(中略)私たちにとっては紙に関する情報が何よりもありがたかった。「どこどこの出版社で余分の紙があるようだ」などというウワサにもすぐ飛びつき、早速その出版社を訪ねる。とにかく、私たちは食物の話ではなく、紙の話に耳をそばだてていたのである。

こうした努力で、昭和21年6月1日には再刊第1号がようやく刷られ、『将棋世界』は新たな第一歩を踏み出した。

出典:加藤治郎『昭和のコマおと』

 加藤八段たちは大変な苦労の末に『将棋世界』誌の再刊を果たします。34ページで、定価は2円50銭でした。

 筆者の手元には、その古びた薄い冊子が置いてあります。折に触れて見返すたび、棋界の先達の思いがしのばれ、粛然たる思いがします。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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