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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝の逆襲。大庭景親にとって「想定外」だった2つの理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大庭景親と伊東祐親にとって、源頼朝の逆襲は「想定外」だった。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」8回目では、源頼朝が東国の豪族を従えて鎌倉を目指したので、大庭景親は焦りに焦っていた。その理由について、深く掘り下げてみよう。

■楽勝ムード漂う大庭陣営

 治承4年(1180)5月、源頼朝は「打倒平家」の兵を挙げると、平兼隆の館を襲撃し、見事に成功した。頼朝は舅の北条時政ほか、反平家の志を同じくする東国の豪族を糾合することに成功したのだ。

 一報を聞いた平家方の大庭景親は、伊東祐親らとともに出陣し、石橋山の戦いで頼朝の軍勢を打ち破った。負けた頼朝は生き残った味方とともに、安房国へ逃亡したのである。この戦いで、頼朝方は時政の嫡男・宗時を失うなど、大きな痛手を蒙った。

 このとき頼朝の率いた軍勢は、約300。一方、景親の率いた軍勢は約3000だったので、約10倍である。しかも景親は頼朝軍をあっという間に蹴散らしたのだから、すっかり余裕である。景親からすれば、「頼朝など恐れるに足らず!」と楽勝ムードだったに違いない。

 しかし、その後の展開は、まったく予断を許さなかった。

■想定外① 大庭陣営は一枚岩ではなかった

 世は平家が「我が世の春」を謳歌していたとはいえ、平家方の大庭陣営は決して一枚岩ではなかった。

 景親には、景義という兄がいた。景義は保元の乱で源義朝の軍勢に加わったが、戦闘のときの怪我が原因で歩けなくなった。そこで、景義は家督を弟の景親に譲り隠退した。そもそも景義・景親兄弟は、ともに義朝に仕えていたのである。

 ところが、頼朝が反平家の兵を挙げると、景義は景親の軍勢に加わらず、頼朝方に与した。同じ一族とはいえ、両者は袂を分かったのである。景義が頼朝方に与したのは、景親にとって誤算の一つだったに違いない。

 石橋山の戦い後、頼朝方の軍勢は山に逃げ込むと、景親はくまなく探索させた。景親の軍勢に加わった梶原景時は、頼朝を山中で発見した。しかし、景時は景親に頼朝を発見新たとの報告をしなかった。景時が見逃したので、頼朝は九死に一生を得たのである。

 味方が裏切るなどし、大庭陣営は決して一枚岩ではなかったのである。

■想定外② 頼朝に馳せ参じた東国の豪族

 安房へ渡海した頼朝は、あらゆるネットワークを使って、東国の豪族を味方にしようとした。その結果、上総、安房だけではなく、武蔵の豪族も頼朝に従った。これにより、頼朝は平家に対抗し得るだけの軍勢を集めることに成功したのである。

 なかでもドラマで佐藤浩市さんが演じた上総広常は、約2万の軍勢を率いていたという。数にはやや誇張があるかもしれないが、次々と有力な東国の豪族が頼朝のもとに馳せ参じたという知らせは東国一帯に広まり、頼朝への求心力を高める効果があったに違いない。

 そして重要なことは、東国の豪族は全員が「平家バンザイ!」と思っておらず、平家の息の掛かった家人とトラブルになるなど、少なからず不満を抱く者もいた。頼朝はそうした不満を持つ東国の豪族の受け皿となり、反平家の旗手になったといえよう。

 大庭陣営は、そのあたりの見通しが甘かったといえよう。

■むすび

 ドラマのとおり、頼朝軍が意外にも大軍を組織したので、大庭景親は焦りに焦った。そして、悲惨な最期を迎えるのであるが、その辺りはドラマの進捗状況にあわせて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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