源頼家から謀反人の濡れ衣を着せられ、討たれてしまった気の毒な人物とは?
特に理由もないのに、疑いを掛けられることは、現在でも決して珍しくない。源頼朝の弟の阿野全成も明確に謀反をしたわけではないが、嫌疑を掛けられ殺害されたので、その経緯を取り上げておこう。
全成は源義朝と常盤御前の子として仁平3年(1153)に誕生した。幼名は今若。頼朝は異母兄、義経は同母弟である。義朝は、平治元年(1159)の平治の乱で平清盛に敗れ、逃亡中に殺害された。全成は死罪を免れ、醍醐寺(京都市伏見区)の僧侶となり、悪禅師と号した。
治承4年(1180)、頼朝が挙兵すると、全成は兄を助けるため東国へ向かった。頼朝は佐々木兄弟の案内によって、下総鷺沼(千葉県習志野市)で初めて全成と会い、感激のあまりに涙を流したという。
のちに全成は、北条時政の娘の阿波局を娶り、長尾寺(神奈川県川崎市)、駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を与えられ、阿野を名字とした。阿波局は、頼朝の子・千幡(のちの実朝)の乳母を務めることになった。
頼朝が建久10年(1199)に急死すると、次の征夷大将軍には子の頼家が就任した。比企能員は妻が頼家の乳母を務めていた関係もあり、頼家を支えた。これにより、能員は権勢を保持した。時政と全成は能員に強い危機感を抱き、頼家そして比企一族と対立するようになった。
建仁3年(1203)5月、全成は謀反の疑いを掛けられると、武田信光に捕縛され、宇都宮四郎兵衛に預けられた(『吾妻鏡』)。頼家は先手を打って、全成を捕らえたようだ。その後、阿波局に全成の謀反について問い質したが、何も知らないと答えがあったという。
全成は嫌疑が不十分だった可能性もあったが、しばらくして常陸国に流された。そして、同年6月23日、頼家の命を受けた八田知家が下野国で全成を殺したのである。その後、京都にいた全成の子・頼全も、佐々木定綱に殺害された。
全成が謀反を起こして、頼家に成り代わって征夷大将軍の座を狙ったのかについては、今となっては不明である。しかし、実際には、そこまでの考えはなかったように思える。
むしろ、危機感を持った頼家が比企氏と協力し、全成に謀反の嫌疑を掛けて殺害することで、北条氏の威勢を削ごうとした可能性がある。つまり、頼家と比企一族のでっち上げにより、全成が謀反人とされたのではないだろうか。