「死ぬ覚悟で来た」…尹錫悦大統領の‘非常戒厳宣布’に抗った韓国市民、背景に民主主義の歴史
3日22時半頃、野党を「反国家勢力」と見なす尹錫悦大統領による突然の‘宣布’で始まった、45年ぶりの韓国「非常戒厳」事態。
明くる4日午前1時頃に国会で可決された「非常戒厳解除要求案」を尹大統領が受け入れ、同午前5時頃の国務会議(閣議)で非常戒厳解除を議決することで終わった。
●キーワードは「国会」
この記事を書いている今、韓国にはいつもと変わらない朝が来ている。今朝配達された朝刊にも、前日の締め切り後に起きたため「戒厳」の二文字は見当たらない(各紙別途の号外を出している)。机の下では犬がいびきをかいて寝ている。長い夜が明け、全ては幻だったかのようにも思える。
しかしこんなお気楽な文章を書けるほどに非常戒厳が早くに終息したのは、運が良かったからではない。市民の、そして国会議員の踏ん張りがあったからだ。これを書いていったん、長い夜の締めくくりとしたい。
尹大統領の宣布直後、戒厳司令部が設置され、司令官には陸軍参謀総長の朴安洙(パク・アンス)大将が就いた。司令部は3日23時付で以下のような布告令を発表した。
今回重要だったのは、1,3,4だった。
これらは社会をコントロールするための手段であり、特に1は非常戒厳を解除するためのカギを握る国会を封鎖することにつながる。韓国の憲法77条は戒厳についてこう規定している。
この中では(5)が重要だ。
戒厳の理由となる国家非常事態が回復されない場合(大統領が恣意的にそう判断する場合も含め)、大統領以外に戒厳を解除できるのは事実上、国会しかない。
●『ソウルの春』そして『光州5.18民主化運動』
だからこそ韓国では戒厳令と国会封鎖はセットとなる。
45年前の1979年10月26日、当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が暗殺された際、大統領代行の崔圭夏(チェ・ギュハ)国務総理が翌27日に済州島(チェジュド)以外の地域に非常戒厳令を出し、全斗煥(チョン・ドゥファン)少将が戒厳司令官となり実権を握った。
そして全氏は映画『ソウルの春』で描かれた同年12月12日のクーデターを経て「新軍部(朴正熙以降の軍部ということ)」の最高実力者となり、翌80年5月18日0時を機に非常戒厳令を全国に拡大する。
この過程で真っ先に行ったのが国会の封鎖だった。国会前を戦車で塞ぎ、議員を入れなくし戒厳解除の可能性をつぶした。
このように新軍部が国政を完全に掌握する中、光州で現代史最大の悲劇の一つ『光州5.18民主化運動』が起きる。孤立させられた光州市民は、戒厳軍に踏みにじられた。
この歴史を知るからこそ、尹大統領が非常戒厳を宣布したこの日、国会議員と市民は真っ先に国会に向かったのだった。
既に多くの映像や写真が出ているように、国会議員は市民の助けを借り壁を越え窓から議場に入り、補佐官や秘書陣たちはバリケードを作り議場への軍の侵入を阻んだ。
なお今回、国会に投入されたのは韓国えりぬきの精兵・特殊戦司令部の第一空輸(空挺)部隊だった。この点も人々の頭に空輸部隊が市民を虐殺した「光州」を想起させたのではないだろうか。
●市民の声
国会議員の仕事は戒厳解除要求を可決することであるのは明らかだ。では市民にはどんな役割があるのか?
3日深夜から4日明け方にかけて、数千人の市民が警察により封鎖された国会前に結集した。その何人かに話を聞いた。「なぜ国会に来たのか?」という問いへの答えをざっと並べてみたい。
「国会議員たちを応援するために、彼らの言葉を支えるために来ました。ニュースを聞いてすぐ車で1時間以上かけて駆けつけました」(キム・テヒョン、京畿道[キョンギド]水原[スウォン]市、45歳男性)
「国会議員を守るために来ました。私たち市民が出てきて私たちの力を見せてこそ、国会議員たちが私たち国民を信じて正義の道を進めるのではないでしょうか」(キム・ソヨン、ソウル市、56歳女性)
「議員たちも怖かったはずです。周囲を武装した軍人が取り囲んでいるのですから」(カンさん[仮名]、ソウル市、50代女性)
「死ぬ覚悟で来ました。最後の最後には軍人と対峙して戦う覚悟でした」(カン某氏、京畿道高陽[コヤン]市、64歳女性)
「命を投げ出す覚悟でした。私たちの後の世代のために、子供たちのために」(カン某氏、京畿道高陽市、60歳女性)
「まず国会を封鎖すると考え国会に来ました。こうやって国民が抵抗しなかったら、そして国会議員や記者が抵抗しなかったら、ここ(国会前)は既に戦車や装甲車、空挺部隊が掌握していたかもしれません。
ここに来ながら最悪の状況が起きるとも考えました。だが、それを知った上で国民たちが動きました。実際に兵士の国会進入を防いだ市民もいます」(パク・コニョン、京畿道安陽[アニャン]、55歳男性)
「釜山であった法事からソウルに着いた足で来ました。ヘリから兵士が降りてくる場面を見たのがきっかけです。独裁は簡単にできるものではないですが、大変なことになると思いました」(イム・ギョンテク、ソウル市、66歳男性)
「国会議員を不法に逮捕するのではないかと思い車で来ました。軍や警察を考えると怖かったですが、人任せにするのではなく、一人の市民としてできることをしようと。
韓国市民は朴槿惠(パク・クネ)大統領の弾劾の時に、自分で動くことを学んでいます。酒を飲んでいたが飛び出してきたという若者、パジャマ姿で出てきた人もここで見ました」(チャン・ジュニョン、京畿道、38歳男性)
「歴史的な出来事だと思います。ろうそくデモ(編注:8年前の朴槿惠弾劾デモ)の時は小学生で参加できなかったので(参加できて)とてもよかったです」(ムン・グァンハン、京畿道烏山(オサン)市、21歳男性)
こうしたコメントからは、市民が明確な目的と意志を持って国会前の「現場」に来ていたことがよく分かる。
この日、国会前の道路には即席の演台が設けられ、市民が絶え間なくスピーチをしていた。そしてその内の何人かが、とりわけ若者たちが「光州(クァンジュ)」という単語を口にしていたが強く印象に残った。
私は以前、多大な犠牲を払う‘ことで’民主化運動に筋道をつけた80年の『光州5.18民主化運動』を社会の革新における「尽きることのない泉」に例えたことがある。
市民の姿は、44年前に戒厳軍に立ち向かった精神が今なお脈々と受け継がれている証左と言えるだろう。
●奇跡的だったのではないか
正直に告白すると、私は今、こうして記事を書いていることに対する現実感があまりない。徹夜明けだからではなく、非常戒厳が終わったこと、何事もなく朝を迎えたことが信じられないからだ。
「一日クーデターで終わるかも」。私は尹大統領の非常戒厳宣布後すぐ、X(旧ツイッター)にこう書いた。
たしかに今の韓国は政府・与党と野党が度を超した対立の中にあるが、戒厳令が必要なほどであると認識している人はほぼいない。最後は尹大統領の自爆に終わるという感覚は広くあったはずだ。
だが、もし国会の中で一発でも発砲があったら、警察が市民を殴ったら、市民が耐えきれず警察や軍に先に手を出したら、韓国軍の各指揮官が冷静な判断をできない状況になったらなど、大きな混乱につながる導火線はあちこちに存在した。
それを防ぎ、ほぼ完璧な形で尹大統領の暴挙を封じ込めたのは奇跡としか言いようがない。国会の内外で市民や議員、軍がそれぞれの役割を自覚し、きっちりとそれを果たした。本当に、本当によかった。
私は今回の一連の取材を通じ、民主主義を守ろうとする韓国社会の体力や瞬発力が、血で勝ち取ってきた民主主義の歴史によって作られ、支えられていることを改めて確認した。
このまま、8年前の弾劾の際には実現できなかった「社会の前進」を、ぜひとも成し遂げてほしいものである。