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あまりにドケチすぎて、妻から叱責された武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
前田利家像。(写真:イメージマート)

 昨今、賃上げが叫ばれているが、肝心の経済が劇的に好転しないので、人々が節約するのは仕方ないだろう。前田利家はあまりにドケチすぎて、妻から叱責されたという逸話があるので、取り上げることにしよう。

 利家は利昌の子として、天文7年(1538)に誕生した。のちに織田信長の近習として仕え、各地を転戦した。やがて利家は、「槍の又左」と恐れられるほどの武将になった。

 永禄2年(1559)、利家は信長の勘気を蒙って、織田家中から追放された。その後、利家は牢人(浪人)生活を送りつつ、勝手に桶狭間の戦いなどに織田方として出陣した。その間、経済的に厳しかったことは、想像に難くないところである。

 利家が信長に許され、前田家の家督を継いだのは、永禄12年(1569)のことである。その間、貧乏のつらさを身に沁みて感じただろう。それゆえか、利家は大変なドケチだったと伝わっている。

 天正12年(1584)、利家が佐々成政との戦いに臨んだが、なかなか兵が集まらなかったという。妻の「まつ」は「蓄財に励むのではなく、お金で兵を雇ってはどうか」と叱責し、備蓄していた金・銀を利家に渡したという逸話が残っている。

 さすがの利家も、「まつ」の皮肉たっぷりの言葉にブチ切れそうになったが、軍費が無事に整ったのは幸運だった。その結果、利家は成政に勝利し、「加賀百万石」への道のりを歩むことになったのである。

 慶長元年(1596)、慶長の大地震が勃発し、京都市中に甚大な被害をもたらした。前田家の京都屋敷も大きな被害を受けたので、利家は子の利政に新しい屋敷を建てさせた。しかし、あまりに豪華な建物だったので、利家は「金の使い過ぎだ」と激怒したという。

 実のところ、利家は大名に金を貸していた。利家は死に際して、「彼らも金に困っているに違いないだろうから、決して借金の催促はしないように」と遺言したと伝わっている。

 利家がドケチだったということは、諸書に書かれており、愛用したというそろばんが今も残っている。ただ、すべての逸話が史実なのかは、さらに検討を要しよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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