関ヶ原合戦後、家康はどうやって盤石な体制を築いたのか。その秘密を探る
大河ドラマ「どうする家康」では先のことになるが、関ヶ原合戦後、家康は盤石な体制を築いた。その秘密について、考えることにしよう。
慶長8年(1603)、徳川家康は征夷大将軍に就任し、豊臣家を凌ぐ存在となった。江戸幕府の成立でもある。その2年後、家康は征夷大将軍の職を子の秀忠に譲り、将軍職が徳川家の世襲となることを天下に知らしめた。
一方の豊臣秀頼には、関白に就任するとの噂が流れていた。もし、秀頼が関白に就任したならば、征夷大将軍の家康に匹敵し得る存在になるのは明らかだった。
しかし、最終的に秀頼が関白に就任することはなく、逆に家康の子・秀忠が征夷大将軍の職を世襲した。これにより、徳川家はいっそう優位な立場になったのである。
慶長12年(1607)になると、家康は駿府城に移り、大御所政治を展開した。そして、家康は主に朝廷、寺社、西国大名の政務を担うようになったのである。
関ヶ原合戦直後、家康は奥平信昌を京都所司代に任命した。京都所司代の職務は、京都市中の治安維持、禁中・公家に関する政務の管掌、京都・伏見・奈良の三奉行の支配、京都周辺8ヵ国の訴訟の処理、西国の大名の監視などである。
家康は政権の基盤を江戸、駿府に置きつつも、京都などを掌中に収めることにより、本来は豊臣政権が支配の権限を持つ畿内およびその周辺の支配を行った。
慶長6年(1601)に信昌が京都所司代の職を退くと、板倉勝重が後継者となり、以降、19年にわたって京都所司代の職にあった。この頃の京都所司代の職務は、反徳川勢力の制圧、および西国大名の統制など軍事的な性格が濃くなっていた。
さらに家康は佐渡金山、大森銀山(石見)、生野銀山、黒川金山(甲斐)などの重要鉱山を直轄化し、幕府の財政基盤の強化を行った。また、堺、伊勢山田、長崎などの主要都市も配下に収めた。主要都市の多くは交通の要衝にあり、大きな経済圏を形成していた。
家康は優位になったものの、決して豊臣家を滅亡に追い込もうとしたわけではない。家康の本意は特別な存在だった豊臣家を完全なコントロール下に置き、諸大名と同じ処遇にすることにあったといえよう。