やはり日本人監督は土壇場になると徹底的に引く。J1昇格POで露呈した東京V、清水両監督の前時代的本性
東京ヴェルディ(J2、3位)と清水エスパルス(J2、4位)が争ったJ1昇格プレーオフ決勝。同点で終われば東京Vの勝ち。0-0で推移する間は東京Vのリード、清水のビハインドを意味していた。
その結果だろう。ピッチには立ち上がりから攻める清水、守る東京Vの図が鮮明に描かれた。清水が地力で上回っていたこともあるが、東京Vが積極的に攻めようとしないことも輪を掛けた。
90分1本勝負でありながら、優劣がはじめから決められている設定だ。ホーム&アウェーで争われるカップ戦の第2戦もそうした状況で迎える場合が多いが、1部昇格か2部残留かを懸けた、クラブの死活問題に関わる重たい試合での話である。
追いかける側が前に出ようとするのは当然である。問われているのはリードしている側の姿勢だ。負けじと打って出るのか。守りを固めるか。サッカー的に言うならばプレッシングで対抗するのか。自軍ゴール前に人数を多く割き、カテナチオ的に引いて構えるのか。
忘れてならないのは、守備には後ろに構えるだけでなく「攻撃的な守備」という選択肢も含まれていることだ。
東京Vは非プレッシングだった。引いて構えた。できるだけ高い位置でボールを奪い、相手の陣形が整う前に攻め切ろうとはしなかった。
状況が一変したのは後半18分。東京Vがエリア内でハンドの反則を犯す。このPKを清水が決め、一瞬にして、「攻める清水、守る東京V」の関係は一変した。リードする側とされる側の関係がひっくり返ることになった。
東京Vがその後、試合を押した原因は、どちらかと言えば東京V側ではなく清水側の変化に起因していた。鮮明になったのは清水の引いて守ろうとする姿勢だった。布陣も4-2-3-1から5バックに変わっていた。
両軍の攻撃力を比較したときマックス値で勝るのは清水だ。その清水が引いた。重心を後方に下げた。自ずと東京Vは前に出た。東京Vの攻撃力に清水が屈し、たまらず後退したと言うより、自ら後退した印象だ。
後半の追加タイムは8分で、事件が起きたのは後半51分だった。清水DF高橋祐治が東京V、FW染野唯月にスライディングタックルを仕掛ける。それがVARでPKと判定され、染野が蹴ったPKが同点弾すなわち、J1昇格を意味する決勝ゴールとなった。
リードしている側が守りに入る。後方に構える。その結果、両軍の関係は逆転する。J1昇格プレーオフで展開されたサッカーは、文字通り非プレッシングの応酬だった。
プレッシングサッカーは、サッカー史においてトータルフットボールとともに2大発明と位置づけられる。プレッシングの生みの親であるアリゴ・サッキはトータルフットボールについて「それが登場する前と後とでサッカーの概念は180度変わった」。「プレッシングはトータルフットボールの延長上にあるものだ」と、こちらのインタビューに明快に答えている。
プレッシングか非プレッシングかは、今日的か前時代的かのバロメータといっても過言ではない。プレッシングを非今日的という人はいない。非プレッシングを今日的という人もいない。プレッシングの興隆に近代サッカーは支えられている。
東京Vの城福浩監督は試合後「相手陣内でプレーすること。幅を使って外から崩すのが我々のスタイル」と述べている。プレッシング系に属する、攻撃的サッカーの信奉者であることをアピールした。しかしそれはこの大一番のピッチに描かれた絵とは大きく異なっていた。
清水の秋葉忠宏監督は会見で、先制点を挙げた後、5バックにした件を問われると「先制点を奪う前(0-0で推移している時)から5バックに変えていました」と、質問者に断りを入れた後「5バックはオプションのひとつとして持っていました」と加え、また「80分ぐらいまで、2-0で勝つつもりでいた」とも述べている。一言でいえば、自らの5バックを守備的ではないと言ったわけだ。
しかし城福監督同様、それとピッチに描かれた姿は乖離していた。0-0で推移しているとき(先制点を挙げた3分前)に5バックにした理由を推し量ることはできないが、1-0とした後の陣形は4-2-3-1の時より明らかに重心が下がっていた。2点目を狙いに行くより失点を恐れ、守りを固めた。ピッチにはそう描かれていた。
後半51分、高橋が染野に及んだタックルも、何が何でも守り倒す、構えて守ろうとする精神が仇になったシーンだといえる。5バックで守れば、前方の人数は減る。プレッシングは掛かりにくい。ボールを奪う位置は低くなる。
同時に、攻撃の始点も低くなる。このサッカーに発展性はあるのか。時代をリードする魅力はあるのか。答えはノーだ。
絶対に負けられない90分1本勝負。まさに究極の一戦である。そこで振る監督の采配、戦い方には踏み絵のような意味合いがある。攻撃的に行くか、守備的に行くか。プレッシングか非プレッシングか。監督が内包する本当の色が鮮明になる瞬間だ。城福、秋葉両監督は、この土壇場の大一番で自らの色を貫くことができなかった。非プレッシングこそを自分の色としてしまった。
大一番になると5バックを採用する。強者相手にリードすると、かなりの確率で5バックにしそうな監督と言えば、森保一監督を想起する。2018年8月に行われた代表新監督就任会見で、目指すサッカーを問われると森保監督は「臨機応変」と述べた。森保監督がこのJ1昇格プレーオフを戦っていたら城福、秋葉両監督と近い非プレッシングを選択したに違いない。
森保監督をはじめとする日本人監督、さらにはテレビ解説者、評論家は「中盤でブロックを組む」などと「ブロック」なる言葉をよく使う。プレッシングほど強烈ではないが、引いて構えるわけではない。中庸、まさに臨機応変をイメージさせるこの言葉は最近、特によく使われる。
だが、組まれたブロックがそれは本当に中庸だろうか。そのベクトルは前向きなのか、後ろ向きなのかと言えば、6対4で後ろだろう。少なくとも、できるだけ高い位置でボールを奪い、相手の陣形が整う前に攻め切ろうとするプレッシングの概念から、哲学的に外れている。
土壇場に立たされたとき、あなたが監督なら究極の選択としてどちらを選択するか。
アリゴ・サッキは筆者にこう言った。「人間の本能は、守備と言えば後ろを固めようとしたり、構えたりする。そうした人間の本能の逆を行く戦術がプレッシングだ」と。プレッシングが簡単に浸透しなかった苦労話も聞かされた。
1970年代に発明されたトータルフットボール当時、筆者は日本在住の中学生だったので、それが何たるか詳しく知ることはできなかった。「それが登場する前と後とでサッカーの概念は180度変わった」と、アリゴ・サッキのような評論はできない。だが、プレッシングが発明される前と後は見てきたつもりだ。それを機に筆者の概念は、大袈裟ではなく180度変化した。
プレッシング(攻撃的守備)と攻撃的サッカーをベースに発展してきたサッカーの歴史と向き合う覚悟が、サッカー監督には求められている。守るを固める、構える、下がると捉える旧態依然とした日本人監督は、まだまだ多数派を占める。古い常識の中で采配を振っている。その象徴が今回のJ1昇格プレーオフだったと言える。試合をリードしても下がらない監督。プレッシングを信じることができる監督。その割合が、そうではない監督を超えない限り、サッカー的思考法=サッカー文化が浸透したとは言い難い。