左エースの龍谷大平安は強い? センバツの話題その3
「よう、いわれるんですわ」
と龍谷大平安・原田英彦監督が苦笑する。昨年秋の近畿大会は野澤秀伍、豊田祐輔の両左腕が急成長して優勝。それにしても平安は、左の好投手が目立ちますよね……と話題を振ったときのことだ。
1997年夏、原田監督就任以来初めての甲子園では、川口知哉(元オリックス)を擁して準優勝。2003年夏には、服部大輔が東北(宮城)のダルビッシュ有(現カブス)と息詰まる延長11回の投手戦を見せ、14年センバツは高橋奎二(現ヤクルト)が2年生エースで優勝し、16年センバツの4強は市岡奏馬(現明治大)……。そして現チームでしのぎを削る野澤と豊田も左腕、というわけだ。
もっとも、新チームスタート時には「軸がいず、頼りなかった」(原田監督)のである。豊田はともかく野澤は、京都国際との京都大会準決勝で初回の5点リードをはき出す背信の投球。なんとか3位決定戦をものにして進んだ近畿大会では、背番号1をはく奪された。ただ原田監督の分析では、不調の原因ははっきりしていた。3回戦まで進んだ甲子園でベンチ入りしていたため、明らかに投げ込みが不足していたのだ。
まっすぐの質は高橋奎二より上
そこで、野澤。
「府大会のあとは投げるのはもちろん、監督にアピールするために、グラウンド外周を走り込んだ」
すると、もともと「ゆったりしたフォームからピュッとくるまっすぐの質は、服部や高橋より上。数字はそれほどでもありませんが、実際に打席に立ってみるとえぐいです」と原田監督のいう球のキレが戻ってきた。近畿大会では初戦、豊田・野澤のリレーで天理(奈良)の強打線を3点に抑えると、正念場となる履正社(大阪)との準決勝では、野澤が7回を3安打で完封でコールド勝ちだ。さらに明石商(兵庫)との決勝でも野澤は、延長12回を1失点、自責0。
「相手打線が振り遅れていましたからね。やっと、投手の軸ができた」
と原田監督を喜ばせた。野澤はこう、振り返る。
「近畿大会は初戦で、(ライバルの)豊田がいい投球をしたので、自分も変わった姿を見せたかった。いま思えば、府大会ではエースの重みを考えすぎたのかもしれません。近畿大会からは、思い切って腕が振れるようになりました。Maxは138キロですが、ストレートの球質には自信があって、"球持ちがいい"とよくいわれます」
公式戦の防御率は2・17と平凡だ。だが26回を自責1と変身した近畿大会に限れば、一気に0・35と非凡なものになる。
甲子園での親子・兄弟本塁打も
その野澤が、エース番号のはく奪をエネルギーにしたとするなら、豊田の場合は昨夏、甲子園のベンチ入りからもれたことがそれにあたる。京都大会では野澤とともに2年生でベンチ入りしたが、甲子園でメンバーに入ったのは野澤だけだったのだ。豊田は当時、悔しさを押し殺してこう語っていた。
「野澤はライバルであり、いい仲間。野澤には甲子園を経験してもらい、来年は高いレベルでエース争いをしたい」
チームが甲子園で勝ち進む間、みっちりと投げ込みを重ね、独特のカーブに磨きをかけた。「打線が強力だからこそ、通用する」と原田監督の読んだ天理戦で、豊田はカーブを駆使して9回途中まで3失点の好投。ライバル・野澤の不調を補い、チームを救う活躍を見せたのだ。このダブル左腕に、原田監督が「化けたらすごい。ダルビッシュ級」という橋本幸樹がいる投手陣。打線は水谷祥平、昨夏甲子園デビューを果たした新2年の奥村真大らが中軸だ。
ちなみに奥村の父・奥村伸一さんは、甲西(滋賀)のメンバーとして85、86年夏の甲子園に出場し、86年には三沢商(青森)との開幕戦でホームランを放っている。また真大の兄・展征(現ヤクルト)も、日大山形で出場した13年夏、日大三(西東京)戦でホームラン。甲子園では史上2組目の親子本塁打を記録している。甲子園では過去、兄弟本塁打も2組あって、もし真大にホームランが飛び出せば……親子・兄弟本塁打という、史上初めての快挙となる。
話がそれた。冒頭、原田監督就任以来の好左腕の名前をあげたが、原田平安はこれまで、甲子園の4強以上が3回ある。そしてその3回ともすべて、サウスポーがエースだった。ということは……今回も期待できるんじゃないか。