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豊臣秀吉の側室になった京極龍子の悲しくも数奇な運命

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉の傍若無人ぶりが目立つ。秀吉には「おね」という正室がいたが、側室も大勢いた。今回は、京極龍子を取り上げることにしよう。

 京極龍子は、京極高吉の娘として誕生した(生年不詳)。母は浅井久政の娘(京極マリア)なので、浅井三姉妹とは従姉妹にあたる。かつて、京極氏は近江における名門守護家だったが、戦国期に至って、すっかり凋落していた。

 成長した龍子は、若狭国の武田元明のもとに嫁いだ。若狭武田氏も名門守護だったが、元明の代にはすっかり衰えていた。やがて、2人は二男一女に恵まれた。元明は織田信長に仕えていたが、のちに大きな決断を迫られることになった。

 天正10年(1582)6月に本能寺の変が勃発し、明智光秀に攻められた信長は自害して果てた。信長の死後、元明は龍子の兄・京極高次とともに、明智光秀の味方になった。この決断によって、元明の運命は大きく狂うことになった。

 直後の山崎の戦いで、光秀は羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、元明も討たれてしまった(自害したとの説もある)。戦後、元明の妻だった龍子は命こそ助かったが、秀吉に捕縛されたのである。

 結局、捕らえられた龍子は、秀吉の側室となった。美女と伝わる龍子は、秀吉から大いに寵愛された。秀吉はどこに行くときにも、龍子に同行を求めたという。醍醐の花見はもちろんのこと、小田原城や名護屋城に行くときも龍子を同行したという。

 文禄2年(1593)に伏見城が完成すると、龍子は松の丸に住み、松の丸殿と呼ばれるようになった。龍子が秀吉の寵を受けたので、兄・高次が引き立てられ、大津城主に登用された。京極一族にとっては福音だった。

 龍子は秀吉の寵愛を受けたが、淀殿とは強いライバル関係にあった。慶長3年(1598)3月の醍醐の花見の際、龍子は淀殿と杯を受け取る順番で争い、「まつ」(前田利家の妻)が杯を受け取り場が収まったという。

 龍子は豊臣家の一員であることを強く意識し、政治にも深く関与した。慶長20年(1615)の豊臣家滅亡後、淀殿の侍女を保護し、国松(秀頼の子)を葬った。龍子が亡くなったのは、寛永11年(1634)である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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