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「やすらぎの郷」 京都の旅館、戦時中の慰問、無口な俳優、売れてるが軽い脚本家、入り混じった虚実を検証

木俣冬フリーライター/インタビュアー/ノベライズ職人

帯ドラマ劇場『やすらぎの郷』(テレビ朝日 月〜金 ひる12時30分  再放送 BS朝日 朝7時40分〜)

第13週 60〜65回 6月26日(月)〜30日(金)放送より。 

脚本:倉本聰 演出:藤田明二

折り返しに向かう前に、前半3ヶ月を振り返る

かつてテレビ業界に貢献した者だけが入れる、老人ホーム〈やすらぎの郷La Strada〉に入居した人々の悲喜劇を描く『やすらぎの郷』が放送開始してから、ほぼ3ヶ月。老人のパワーの強さは、社会やテレビ業界や若い俳優に、それでいいのかと痛烈に問いかけ続け、それが視聴者の愉しみになっている。

これから折り返しに入るが、これまでの3ヶ月、老人ホームでは様々な出来事が起きた。認知症、老いていく肉体への恐怖、遺産、残された夢や野心……悩ましいことばかりだ。とりわけ、劇中の女優の死が、出演俳優・野際陽子の死と重なった12週は、この上なく重く胸に響いた。それでいて、ハダカで海に入る老女のことを描くなど、笑いという”生”を入れてくる強さがある。

『やすらぎの郷』は月から金までの1週間スパンで、だいたいひとつのエピソードが描かれるが、オムニバスのようなブツ斬り感はなく、1話からの出来事が、寄せては返す波のように、行きつ戻りつ描かれていて、人間は、すべての経験や出会いを背負って生きていることを感じさせてもらえる。

例えば、主人公・菊村栄(石坂浩二)は長らく連れ添った認知症の妻・律子(風吹ジュン)を亡くして、やすらぎの郷に入居した。仕事は脚本家だが、いまはもうあまり書く気力がない。基本、やすらぎの郷の、濃い登場人物(かつての仕事仲間たち)の悲喜こもごもに巻き込まれ、観察し、手助けに奮闘するなどあたふた日々を過ごしているが、時々、妻のことや、自分の生業のことが頭をよぎる。

13週のふりかえり 売れっ子だが哲学のない作家とは誰か

13週では、妻の友人・井深凉子(野際陽子)がペンネーム濃野佐志美名義で書いた『散らない桜』という、戦時中のことを書いた小説がドラマ化することになるという話。その小説は、第3週ですでに物議を醸していたが、またまた話が蒸し返されるのだ。

そこには、やすらぎの郷の癒やしの存在・姫こと九条摂子の(八千草薫)の触れられたくない事実(特攻兵と特攻前夜にお食事をする)が書かれていたことから、菊村は、戦時中の史実を調べ始める。ぼんやり、隠居して、他人の老いにまつわるあれこれを観察しているだけではなく、作家の血が騒ぐのだなと思わせる場面だ。

この一度は解決したはずの小説問題が、13週でまた持ち上がってくることによって、『やすらぎの郷』の最初に描かれ、センセーショナルを巻き起こした、テレビ批判の炎も再び燃えが上がる。

62話で菊村は、小説をまったく違う終わり方にアレンジしてしまった、若い人気脚本家を、批判する。

売れっこで、筆力もそこそこあるが、軽い、と菊村が思う作家に対して、「局にくい込んで商売する能力は抜群です。それだけに視聴率を稼ぐ力は中々なものですが、全く哲学がありません」と手厳しい。その後も、批判は続く。

史実をあれこれパッチワークして、ラストは、口当たりよく改変、メロドラマに仕立て上げたものを観た菊村は「あの時代に生きた若者たちの、切羽詰まったどうしようもない感情から、全くかけ離れた絵空事のオハナシだ」と悔しく思う。

これが、特攻を書いて、映画化もされて大ヒットした小説『永遠の0』の作家のことではないかと、SNSではさっそく話題になった。

ちょうど、国営テレビが脚本化した『最後の晩餐』に出演する俳優・シノ(四宮道弘)役の向井理は、ドラマ版の『永遠の0』に出ていたから、気にならないといえば嘘になるが、ここでは深入りしない。

戦争を実際に体験した作家と、体験してない作家では書けることは違うのは仕方ないとはいえ、菊村はやりきれない。これは、劇中の話だけにとどまらず、戦争を知っている作家たちの想いであろう。彼らは、その記憶を台本に刻みつけてきたのだから。

「あの台本がドラマ化されて、世に出てしまったらどうなるのか。

今の人々は別に何も思わず、面白かったか面白くなかったか、ただ、それだけで終わってしまうだろう。

テレビ局はそれが視聴率を稼いだかこけたか、そのことだけに一喜一憂し乾杯するか、台本もろともくずかごに投げ捨てて早く忘れてしまおうとするのか。そのどちらかをするだけだろう」

出典:(63話の菊村の台詞より)

こういった倉本聰の、どうしようもない怒りの台詞もストレートに効くが、『やすらぎの郷』の素敵なところは、いまのドラマに文句を言う分、脚本に圧倒的な力があることだ。

例えば、姫が、戦争で亡くなった監督をどれだけ愛していたかを表すエピソードは、出征前に切った爪をもっていたこと、戦死の報を聞いたときその爪を泣きながら食べたことだ。人間はそんなことをするのか、という驚きと、このディテールにこそ、語り尽くせぬ哀切が込もる。

何気ないじいさんの会話にも含蓄がある

また、同じく63話では、菊村と大納言(山本圭)とマロ(ミッキー・カーチス)のひましているじいさん3人が釣りをしながら、語り合ういつものシーンがあるが、そこで語られた昔話のことも印象深い。

『桃太郎』の桃が流れる音が「ドンブラコ」なのか「ドンブラコッコ」なのか「ドンブラコッコスッコッコ」なのか。それは住んでいた場所によって違うのではないかと考える菊村。人間の個別の記憶について、そして、それが代々伝承されていくことの重要性が、この話には潜んでいる。

その前に、マロは、働く父母の代わりに祖父母が孫の世話をすれば、待機児童問題やお金の問題など解消できると主張するのだが、それはそういう制度の問題の解決と合わせて、祖父母が孫たちに自分たちの体験を語って聞かせられるということの重要性も説いているのだろう。

今はこの、代々語り継ぐことが分断されてしまっているから、戦争を知らないまま、現代の価値観で昔のドラマをつくってしまう作家もいるわけで(すみません、倉本節)。

ドラマでか批判された、テレビ局が昔の台本や記録映像を残してこなかったことといい、観れば見るほど、個人的な遺恨を超えた、真実が消えていくことへの悲痛な叫びにしか、思えず、ほんとに心が痛くなる。

この『散らない桜』ドラマ化に関しても、「トッピンパラリのプウ」というマロがよく使う(初出、41話)、秋田に伝わる「これでおしまい」というような言葉で一旦閉じる。だが、きっと、これからも、”遺す”という問題は、『やすらぎの郷』にはつきまとっていくだろう。

13週の虚実を考えたら、倉本モノローグの誕生に行き着いた

『やすらぎの郷』は、虚実入り乱れたドラマと、公的に謳っているようなので、視聴者も自由にいろいろ、現実とドラマを照らし合わせて想像するのが愉しみのひとつだが、13週で、虚実を重ねて観たのは、この3点だ。

その1.京都木屋町蛸薬師にあった旅館・花柳

姫の母親がやっていた旅館で、マキノ省三監督、阪東妻三郎などが訪れたと語られる、この旅館は、実際に倉本聰が、缶詰になって台本を書いた場所だという。東映シナリオライター御用達の宿で、そこで、東大ギリシア悲劇研究会の同期だった中島貞夫と『くの一忍法帖』(60年)の脚本を書いた話が、『愚者の旅 わがドラマ放浪』(理論社)に書いてある(72ページ)。

それこそ、その時代の東映は、高倉健主演作品の全盛期だったそうだ。シノが憧れていたヒデさん(藤竜也)のモデルは、その無口でニヒルで、男性のヒーローでもあったところから、そうじゃないかと言う声が多い。その人である。

その2.無口な俳優は無口なのか問題

そして、シノは、やすらぎの郷に来たとき、ほとんどしゃべらないのだが、ヒデさんに会った途端にべらべらしゃべり出す(65話)。そして、ヒデさんにたしなめられる。ヒデさんだって、実は意外としゃべるときはしゃべるのは、第6週で描かれていた。だからか、ここでは石坂浩二(菊村)はへんな顔をする。

この無口なスターはほんとうに無口か問題だが、倉本聰は『獨白 2011年3月 『北の国からノーツ』で、『北の国から』や『前略おふくろ様』に見られる独特のナレーション(モノローグ)が生まれたわけを書いているところで、こんなことを書いている。

「その頃高倉健さんとわりとしょっ中付き合っていてーーーあの人徹底的に無口なンだよなァ。もう5分位平気で黙ってるンだ。こっちがどうしようって困っちゃうぐらい。

で、ある日真剣に考え始めたンだ。

この人本当に無口なンだろうか。言いたいことが実は山程心ん中にあって、ぺらぺらしゃべるのは男らしくないから表面寡黙を装っているけど本当はしゃべりたくて仕様がないンじゃないだろうか(笑)」

出典:『獨白 2011年3月 『北の国からノーツ』

そんな思いつきから、倉本は、登場人物に饒舌なインナーボイスを語らせるようになった。

倉本はたくさん本に、自身の記録を残しているので、こうやって本を読むと、創作の歴史がいろいろわかって面白い。

その3.俳優が戦時中に慰問した歴史について

姫を演じている八千草薫は宝塚歌劇団出身だ。宝塚も、戦時中、慰問公演で地方をまわっていた(八千草はその当時は入団していない)。それについて史実を元にフィクションとして描かれたドラマがある。『愛と青春の宝塚〜恋よりも命よりも』(02年 フジテレビ)だ。次回の昼ドラを描く大石静が脚本を書いている。特攻兵と宝塚の娘役がひととき心を通わすシーンもある。

また、吉本興業も慰問をしている。菊村が、資料を探しているときの本に「わらわし隊」というものがあって、それのことだ。それは『七人くらいの兵士』(00年)という舞台になった。脚本は俳優の生瀬勝久で、主演は明石家さんまだった。

このように、俳優や芸人が、戦時中に慰問をしていたことは事実だった。だが、もう、ドラマや舞台でしか、そのことを知る機会がなかなか得られない。そして、そこに書かれたことの向こうに、どんな真実があるのか詳しく知ることはもうできない。少しでも、身近な人の体験を聞いていくことの必要性を感じている。

余談も余談だが、64話で、『やすらぎ体操』の歌を弾き語る人物・中川竜介(中村龍二)は、「中井貴一ではありません」とおどけているが、その後、登場する、国営テレビのプロデューサー若松役の天宮良は、倉本のドラマ『昨日、悲別で』(84年)で、中込竜一という人物を演じていた。中川竜介、中村龍二、中井貴一、中込竜一……ややこしい。

あと、6月30日(金)の65話で、バー・カサブランカでかかっていた曲は、ビートルズの「ハローグッパイ」。30日は、51年前に、

ビートルズが日本武道館でコンサートをした日だ。

フリーライター/インタビュアー/ノベライズ職人

角川書店(現KADOKAWA)で書籍編集、TBSドラマのウェブディレクター、映画や演劇のパンフレット編集などの経験を生かし、ドラマ、映画、演劇、アニメ、漫画など文化、芸術、娯楽に関する原稿、ノベライズなどを手がける。日本ペンクラブ会員。 著書『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』『ケイゾク、SPEC、カイドク』『挑戦者たち トップアクターズ・ルポルタージュ』、ノベライズ『連続テレビ小説 なつぞら』『小説嵐電』『ちょっと思い出しただけ』『大河ドラマ どうする家康』ほか、『堤幸彦  堤っ』『庵野秀明のフタリシバイ』『蜷川幸雄 身体的物語論』の企画構成、『宮村優子 アスカライソジ」構成などがある

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