【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が「打倒平氏」の挙兵をした際、頼りにした坂東八平氏とは
![](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/iwiz-yn/rpr/watanabedaimon/00282729/title-1645172080187.jpeg?exp=10800)
ここまで大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、大庭景親ら坂東八平氏の流れを汲む豪族が登場した。源頼朝も頼りにした坂東八平氏とは、いったい何者なのか考えることにしよう。
■坂東八平氏とは
坂東八平氏とは桓武平氏の流れを汲む東国の豪族のことで、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏の8氏のことを意味する(『貞丈雑記』)。のちに、彼らは源頼朝に従い、鎌倉幕府の樹立に貢献した、しかし、これ以外の氏族を記す書物もある。
昌泰元年(898)、桓武天皇の孫・平高望は上総介となり、子らとともに上総国に下向した。その後、子の国香は常陸大掾、良将は鎮守府将軍に任じられるなどし、東国に武士団を形成した。高望の子・良文の子孫が、のちに坂東八平氏と称される。
■千葉氏
千葉氏は高望の子・良文をその祖とし、子孫は代々「千葉介」を名乗った。大河ドラマに登場する常胤は、その流れを汲んでいる。治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、常胤はただちに出陣要請に応じた。
平氏追討後、常胤は有力な御家人として重用され、下総守護に任じられた。子孫は大いに各地で繁栄し、下総、上総に加えて、陸奥、美濃、伊賀、九州などに所領を得ることになった。
■上総氏
上総氏は、平忠常の子孫・常晴をその祖とする。子孫は代々「上総介」を名乗った。大河ドラマに登場する広常は、その流れを汲む。治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、広常は出陣要請に応じた。
しかし、広常は大いに軍功を挙げたものの、傲岸不遜な態度もあり、やがて頼朝から謀反の嫌疑を掛けられた。その結果、寿永2年(1183)に頼朝の命を受けた梶原景時によって、子の能常ともども討たれたのである。
■三浦氏
三浦氏は、良文の孫・為通をその祖とする。子孫は代々「三浦介」を名乗った。大河ドラマに登場する義明・義澄・義村の3代は、その流れを汲む。治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、出陣要請に応じた。
平氏追討後、義澄は相模国守護に任じられた。義村は北条氏と良好な関係を築いたが、宝治元年(1247)に北条時頼に陥れられ、三浦一族は滅亡した(宝治合戦)。
■土肥氏
土肥氏は、中村宗平の子・土肥実平をその祖とする。本拠は相模国土肥郷(神奈川県湯河原町・真鶴町)である。治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、ただちに実平は馳せ参じた。
平氏追討の際、実平は備前・備中・備後国の惣追捕使に任じられた。しかし、子孫は建保元年(1213)の和田合戦で幕府に反旗を翻した和田義盛に与し、土肥一族は大いに衰退した。
■秩父氏
秩父氏は、良文の孫・将常が武蔵国秩父郡中村郷(埼玉県秩父市)に本拠を置いたのをはじまりとする。その子孫の重綱は武蔵国留守所総検校職となり、在庁官人として以後も同職を世襲した。畠山、河越、高山、江戸、小山田、稲毛などの諸氏は、秩父氏から分かれて発展した。
■大庭氏
大庭氏は、桓武平氏の流れを汲む鎌倉景正をその祖とする。孫の景忠が大庭御厨(神奈川県藤沢市ほか)を開発し、大庭を名字の地とした。治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、景忠の子・景親は平氏に、景親の兄の景義は頼朝に与した。
景親は治承4年(1180)の富士川の戦いに敗れ、処刑のうえ首は晒された。景義は頼朝に味方したので、平氏追討後は鎌倉幕府の御家人として小遇された。
■梶原氏
梶原氏は大庭氏と同じく、鎌倉景正をその祖とする。本拠は相模国鎌倉郡梶原郷(神奈川県鎌倉市)で、梶原を名字の地とした。治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、梶原景時は平氏方の大庭景親に従った。
しかし、景時は敗北した頼朝を助け、以後は頼朝に従った。平氏追討後、景時は鎌倉幕府で確固たる地位を築くが、たび重なる讒言が仇となり、正治2年(1200)に滅ぼされた。
■長尾氏
長尾氏もまた、鎌倉景正をその祖とする。本拠は相模国鎌倉郡長尾郷(神奈川県横浜市栄区)で、長尾を名字の地とした。治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、長尾氏は平氏に与した。戦後、長尾氏は三浦氏の配下となり、その子孫は上杉氏の家臣となった。
■むすび
このほか、武蔵七党(丹治、私市、児玉、猪俣、日奉、横山、村山の各氏)など、東国には武士団が多い。今回取り上げた坂東八平氏は平氏の流れを汲むのだが、頼朝に仕えたというのがおもしろい。彼らは平氏に与しても「利なし」と考えたのだ。