織田信長の期待を裏切り、加賀から尾張に呼び戻された簗田広正の失態とは
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、苛烈な織田信長の性格が印象的だ。さて、信長は簗田広正に加賀を与えたが、失態により尾張に呼び戻した。その間の経緯を考えてみよう。
簗田広正は、尾張九坪(愛知県北名古屋市)を本拠とし、織田家に仕えていた。当時、広正は馬廻を務めており、織田家の重臣ではなかった。柴田勝家らと比較すれば、はるかに格下だったといえる。
元亀元年(1570)6月、織田信長が小谷城(滋賀県長浜市)から撤退する際、広正はほかの武将とともに殿(しんがり)を務めた。その後、広正は信忠(信長の嫡男)の配下に収まったのである。
天正3年(1575)8月、広正は信長が率いる諸将とともに、越前一向一揆を討伐すべく出陣した。越前一向一揆を殲滅すると、広正ら諸将は、そのまま一向一揆が勢力を誇る加賀南半国へ侵攻し、平定したのである。
戦いの直後、広正には加賀一国が与えられた。しかし、加賀北半国には一揆勢力が盤踞していた。信長は加賀北半国を自力で制圧すれば、加賀一国をまるまる広正に与えようとしたのだろうが、決して広正には十分な軍勢がいたわけではなかった。
広正に加賀一国が与えられて以降、経緯を示す良質な史料があるわけではない。以下、二次史料交えて、広正がその後どうなったのかを記すと、以下のようになろう。
信長が本国に引き返すと、加賀の一向一揆はただちに蜂起した。広正は大聖寺城(石川県加賀市)で一揆勢の攻撃を食い止めたが、翌年以降も一揆勢は繰り返し攻め込んできた。その後、広正は近くの天神山に砦を築いて、一揆勢と戦い続けた。
ところが、一揆勢はますます勢いを増したので、広正は天神山の砦から撤退せざるを得なくなった。すると、越前から柴田勝家、佐久間盛政が救援に駆け付けたので、何とか一揆勢を追い払うことができたのである。
結果、信長は広正に見切りをつけ、尾張に呼び戻した。加賀の平定は、勝家に託されたのである。その後、広正は再び信忠の配下に加えられたが、天正7年(1579)に九坪で亡くなった。広正は信長から無能者の烙印を押されたが、殺されなかっただけマシだった。