親子断絶防止法の案 親子関係維持のみでは子どもは生活できない
わたしは、9月30日朝日新聞で、『「親子断絶」防ぐ法案に懸念』という記事を書いた。
この欄としてはかなり注目をいただいた。
この記事では文字数の関係もあり、なかなか伝えきれなかったことを、何回かにわたってお伝えしたいと思う。
親子関係の維持をするのはいいことだ、と素朴に思っている方は多いと思う。
わたしも、子どもと親の交流は基本的にはよいことだと思っている。
しかし、法律をつくるとなると、いろいろな事情がある親子すべてに適用されるのだから、だれにとっても納得のいく、権利を侵害しない法律でなければならないのだ。
いま準備されている法案の案はとても、そうはなっていないのである。
「親子断絶防止法案の案」の理念がまず不適切
いわゆる「親子断絶防止法法律案の案」(離婚後の父母との継続的な関係維持促進法)は、「父母の離婚等の後も子が父母と親子としての継続的な関係を持つことが原則として子の最善の利益に資するものであるという基本理念に基づいて、父母がその実現に責任を有するという法律の建てつけがある。
平和に面会交流ができれば、それはのぞましい。
だがそもそも、この親子関係の維持という理念のみによって、子どもの最善の利益が実現できるのだろうか。
わたしは自身ひとり親家庭で男の子を育ててきてその後シングルマザーと子どもたちの支援活動を行っているところから、ひとり親家庭の生活の困難を間近に感じてきた。
ひとり親家庭の相対的貧困率は54.6%である。相対的貧困とは、所得の中央値の半分以下で生活していることである。
この数字は先進国で、最も最悪の数字である。
なぜなのか。それは世界経済フォーラムが10月末に発表した、ジェンダーギャップ指数の日本の順位とも深く関わる。日本は男女の格差が145か国中111と大きく、特に経済的な格差と政治的な格差が激しい国である。
こうした男女格差のもとシングルマザーも就労収入が少なく、経済的に困窮している人が半分以上となるわけである。
近年、こどもの貧困対策にも、政府はだいぶ力を入れてきている。児童扶養手当など経済支援についても充実した。しかしまだまだ不十分でやるべきことはたくさんある。
しかし、こうした流れに、この法律の案は全くコミットしていないようなのである。
こうした、離婚後の子どもの経済も含めた生活のことに関与しないで最善の利益は実現できるのだろうか。
子どもの貧困対策法ができて、ひとり親家庭の苦境にもやっと光が当たってきた。
残念ながら、親子関係の維持よりも、まず、明日食べていかなければならない、生活を維持していかなければならないひとり親家庭がいかに多いか。
毎日、私たちの団体の電話相談には、食べていけない、派遣の仕事が契約切れで更新されないがどうすればいいか、子どもが小さくて十分に働けないが養育費も低額にしか決まりそうもないので生活保護しかないのか、といった相談がある。
面会交流をすることを調停などで迫られても、まずは、住まいを安定させ、子どもの保育園や学校を確保し、仕事を見つけなければならない母子がいかに多いか。日々が必死なのである。
まず生活が安定しなければ、親子の関係を維持するための、面会するだけの時間、精神的余裕など生まれない。
その視点がすっぽり抜けていて、親子関係を維持すれば子どもは幸せになる、という脳天気な法律を作ろうとしていることに、心底驚いてしまったのだった。
脳天気というより、子どものことを考えている、考えている、と言いながら、本当には子どもたちの状況を見ていない法律なのではないだろうかという疑念がわいてくる。
もしも、離婚後(この点も不十分なのであとで触れるが)の子どもの最善の利益を追求するのであれば、まずは、そうした子どもたちの苦境も含めた、総合的な法律、これは先日インタビューさせていただいた、早稲田大学の棚村政行先生(民法)も話してくれたが、総合的な生活支援、面会交流も含めた養育支援(ということばが適切かなあとも思うが)を内容として、最善の利益を追求しなければならないのではないだろうか。
そうすれば、子どもの貧困対策ともしっかりリンクしていくのである。
なぜ離婚後等の子どもだけなのか。婚外子は排除するのか
法律の対象についても、議論があるだろう。
ここには、親と離れて暮らす子どもたちと父母すべてではなく、離婚後親と離れている子どものみを対象としている。
しかし、婚外で出生する子どももいる。
ふたおやと暮らしていない子どももいる。
親がわからない子どももいる。
それこそ、子どもの権利条約を活かして、すべての子どもたちを包括的に対象とすべきではないか。
ここでも、婚外子を排除してしまうことで、法律が脆弱となってしまう。
平成23年の全国母子世帯等調査によると、母子世帯のうち、離婚が80%、未婚の出産による母子が7.8%、死別が7.5%と婚外の出産による子どもは増えている。
この7.8%は、この法律の埒外でよいのだろうか。
婚外子は父親が認知をすれば父子関係は成立する。養育の義務もある。
この子どもたちの中にも、お父さんと会いたいという子どもと母親もいるが実現できていない子もいるし、個々のさまざまな事情がある。
また婚外で生まれたこどものいる母子家庭は、平均年収が格段に低く160万円である。
また、厳しい状況ではあるが、そのほかの事情で親と暮らしていない子どもたちも、たとえば社会的養護の子どもたちのことは、この法律では考えなくてよいのだろうか。
なぜ離婚だけを(別居中は含めたい意向で「等」が入っているようだが)これも法律としての大きな欠陥と思える。
養育費についての取り立て確保が条文にない欠陥
またせっかく子どもの貧困議員連盟でも目標と掲げている、養育費確保について、は「書面による取り決めを行うよう努めなければならない」(6条)で触れられているだけで確保の方策については全く言及していないということも驚いた。
全国母子世帯等調査によると、養育費の取得率は2割以下である。
養育費は4割が取り決めているが、支払い確保方策がひとり親家庭が利用しやすいようにはなされないため、多くのひとり親家庭は泣き寝入りしているのだ。
残念ながら、しんぐるまざあず・ふぉーらむの調査でも、5年後には、取り決めしても半数は払われないようになってしまっている。
元夫が職場を変えてしまえば、どこの会社の給料を差し押さえていいかわからない。元夫の銀行口座がわからないので、何もできない、など訴えをよく聞く。泣き寝入りしている母子は多い。
この状況をどう打開するのかは、子どもの貧困問題解決のためには、(全てではない)が一つの大きな柱であるはずである。
親子関係が維持できれば子どもは食べていけるのか、幸せになれるのか。
親子関係維持だけではなく、子どもの生活、養育全体を支援する法律を作り、国がその義務を負う、という建てつけでなければならないのではないか。
実際のところ、養育費の取り立て確保をしてくのにはたくさんの課題を解決していくことが必要だ。
11月から法制審議会が、養育費の不払いの場合の、義務者の銀行口座の情報を金融機関に開示させるような制度の検討に入るという。
しかし、そもそも養育費の額が低額である問題、取り決め率が低い問題、罰則規定の問題など、制度をつくっていくにはそれなりの手間と時間がかかる。
そのことにもまったく触れないこの法案は拙速すぎるといえないか。
いや、もっと大きな欠陥がある。
誰に義務を負わせるのか。国ではなく同居親の義務を強調している法案の案
いわゆる「親子断絶防止法案の案」は、子どもの権利条約(児童の権利条約)の理念を援用しているように見える。
しかし、実は見えるだけなのである。
子どもの権利条約は、子どもを権利主体と考え、大人とは別の人格としての権利主体と考え、権利保障していこうという条約である。日本も1994年に批准した。
条約を読んでいただければ、わかるが、子どもの権利条約は、締約国に子どもの権利を守らせるための方策をするよう求めている条約である。
ところが、このいわゆる「親子断絶防止法案の案」は、子どもの権利条約の親子関係の維持についての部分(留保事項は無視)のみ引用し、条約の精神、国の義務をであるところをも知らないふりをし、子どもと同居している親だけに、面会交流義務を負わせている。
これでは非同居親が同居親に面会の義務を負わせたいがために、子どもの権利条約の都合のよいところだけひっぱってきて、子どもの権利条約の精神については無視しているということになる。
子どもの権利条約を援用するのであれば、親と離れて暮らしている子どもたちの生活、権利、親との面会そのほか総合的な支援について、国が義務を負う、そういう法律をつくるべきではないのだろうか。
'''子どもの意見表明権も無視のご都合主義
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さらに、子どもの意見表明権は、子どもの権利条約の中心的な概念であるが、このいわゆる親子断絶防止法ではそれも、意図的に、無視し法案の案には盛り込まれていない。
子どもの意見表明権を入れなかったのは、なぜなのだろう。
結局、子どもの意見表明をさせることを恐れているのではないか、と思えてくるのである。
以上のように、一見、離婚後の親子関係を維持するという、良い法律の案に見えるが、法律の目的、理念だけ見ても致命的な欠陥があり過ぎる。
このままこの法律を通して、そのほかの条約や法律との整合性をどう担保するのだろうか。
法案の案のたてつけからみて、モラハラ法案
これでは、離婚後子どもと暮らせない親が、子どもの権利条約の一部を強引に引用して、子どもと暮らす親と子どもに、法律という強制力を使って、無理やり、離婚後の関係の維持を迫る、いわば法律によるモラハラのように見えてくるのである。