日常を取り戻すこととは?平時ではない現在にも重なる映画「春を告げる町」
ドキュメンタリー映画『春を告げる町』は、東日本大震災の発生直後から全町避難を余儀なくされた福島県双葉郡広野町に焦点を当てている。福島第一原子力発電所から20キロに位置し、震災後は東京電力や自衛隊の前線基地になった同町は、復興五輪を掲げる2020年東京オリンピックの国内聖火リレーの出発地点だった。その時と合わせるように、作品の公開は3月21日にスタートした。
しかし、ご存知のように3月26日から行われる予定だった聖火リレーはコロナウィルス感染拡大により中止に。『春を告げる町』も公開が始まって早々に映画館閉鎖に伴い、上映がストップしてしまった。
劇場の休業で上映がストップ。さすがにふさぎこみました
いろいろな意味でコロナ禍に巻き込まれてしまい、公開に支障が出てしまった本作だが、『仮設の映画館』で公開中、GW明け以降、地域によって営業再開した映画館での公開も徐々に始まっている。島田隆一監督は、こうした苦境での公開になったことをいまこう振り返る。
「試写会の段階から、コロナの問題は出ていたんですけど、劇場が休業になるかはその段階ではまったく見通せない。となると、宣伝活動を止めるわけにもいかなければ、初日の3月21日の公開をずらすことも考えられない。僕自身はとにかく公開初日に向けてやれることをやっていくしかありません。その中でも、コロナの状況が明らかに悪くなっていきました。
不安をぬぐえないまま映画の公開初日を迎えたわけですけど、これは、『精神0』の想田和弘監督もおっしゃってますけど、『劇場に来てください』といえない。これはプロモーションをしている間もあった葛藤で、劇場で公開していながら、劇場に来てくださいと言えない。この心苦しさはなんともいえなかったです。
そして、公開されたはいいもののこの状況で、メイン館のユーロスペースが2週目・3週目の土日を臨時休館、4月8日から休業の決断にせざるを得なくなりました。もちろん先が見えないあの状況でお客さんの安全を担保するためには、劇場としても苦渋の決断だったと思います。ただ、全国の劇場が閉まった4月頭ぐらいは、作り手として、ふさぎ込んだというのが正直なところです。
それは作り手のみなさんそうでしょうけど、やはり作品をひとりでも多くの方にみてもらいたい気持ちがあった。制作を含めると3年間ぐらいかけてようやく出来た作品で。自分の思いとしては、劇場で公開してみなさんにみてもらうというのがひとつのピークです。そのピークに向けてやってきたことが、不測の事態で公開途中でストップしてしまいました。これにはさすがに落ち込みました」
こうして劇場が閉まる中、4月25日から『仮設の映画館』での公開に切り替えた。
「当初は自分のことばかりで劇場や配給の人たちのことまで頭が回りませんでした。でも、配給会社の東風から『仮設の映画館』の提案を頂き、いま重要なことはとにかく劇場に人が来れない状況をどうするか、という問題だと。映画を観たいお客さんと劇場の間で経済的な問題が起きている、それを解決しないといけない。その意味において通常の映画館と同様に、劇場と配給と製作者が収益を分配する『仮設の映画館』は非常に優れたプラットフォームだと思いました。もちろん、デジタル配信にはいくつかの懸念はありましたが、この緊急事態には同意できるものです。いまは、このシステムと今後の公開でひとりでも多くの人に届けばと思っています」
広野町とのかかわりは公立中学での映像教育
こんな経緯をたどりながら上映の続く本作だが、先述したとおり、福島県双葉郡広野町が舞台。広野町と島田監督の出会いは2015年だった。それまで縁もゆかりもなかったという。
「広野町の公立中学での映像教育に携わったのがきっかけです。ことの始まりは、映画監督の千葉茂樹さんのお誘い。広野町と一緒に映像教育に取り組むことに千葉監督がなったとき、日本映画大学で一緒に教えていたこともあって、声をかけていただいたんです。『こっちも手伝ってくれ』と(笑)。
広野町としては学校の総合学習の時間の中で、ふるさとの再発見みたいなことができればと考えていたようです。それで相談を受けた千葉監督がドキュメンタリーを撮ることが、中学生がもう一回、ふるさとを見つめ直すのに有効ではないかと。
カリキュラムとしてはテーマを決めて、生徒たちが町をリサーチして、実際に取材をしてみて、その中でどんなことがみえてきたのかを議論して、ひとつの短編ドキュメンタリーにまとめるというものでした」
高校や大学ならまだしも、中学で映像制作とはかなり先進的な取り組みに思える。
「そうですね。実は今回の作品にプロデューサーで入ってもらっている加賀(博行)さんは役所の方で。彼が教育委員会にいたときに、総合学習の時間でシネリテラシーを取り入れようと提言した方なんです。
彼はすごく物事を客観視できる人で。震災から変化していく町を映像に残しつつ、この地で生きる子どもたちが地元を再発見していくことが大切ではないかという気持ちがあったみたい。それで総合学習の中で、映像教育を取り入れることを進めたようです。それは、広野町を現在進行形で記録するものにもなれば、子供たちにとっての町の記憶というか。知っているようで知らない町を探究することにもなるかもしれないと。
このように加賀さんはすごく町の未来というか、目先のことではなく先を見据えている方で、『中学生が撮るふるさとの中に<震災>というキーワードが、どの班からも出なくなったら、きっとこれは面白くなるよね』というような人でした。
普通は逆だと思うんですよ。今の復興の過程みたいなものを残しておきたいみたいなことを、基本的にはたぶん考える。でも、加賀さんは中学生たちが撮っていったときに、今はいろいろな形で復興がみえてしまう。そういうものが見えなくなるぐらい当たり前になっていくまで、この映像教育を続けたいと。そういう意味でも、先をみた映像教育だと思います」
実は、この映像教育は現在も続いているという。
「2015年以後、続いていて、実は今年も実施される予定だったんですけど、このコロナで現段階ではペンディング状態。できたらうれしいんですけどね」
震災直後から誰かが広野町を記録しておくべきだったとの思いを受けて
そして、今回の作品のはじまりは、加賀氏からの打診だった。
「1年目の映像教育が終わったとき、ドキュメンタリー映画を作ってほしいと依頼を受けました。加賀さんとしては震災直後から誰かが広野町を記録しておくべきだったとの思いがあったようで。『いまからでも町がどう再生していくかを記録して、後世に残すことは重要な責務である』と。
ただ、僕としては自身が監督として被災地で映画を作ることはまったく考えていなかった。なので、即答はできなかった。でも、2年目の映像教育を終えたとき、再度打診されて覚悟が決まったというか。加賀さんの想いにこたえようと心に決めました」
作品は、さまざまな立場にいる地元の人々が数多く登場する。ちょっと登場人物が多すぎないかと思うぐらいに。
「僕自身が撮影しながら、ずっとこれは『ごった煮映画だ』と言ってたんですよ。ちゃんこ鍋みたいに、取りあえず入れられるものは全部入れて、それをひとつの味にまとめられたらいいなと。たとえばパトリシア・グスマン監督の『真珠のボタン』をみると、遺骨についての逸話と、宇宙の研究している人たちのインタビューというまったく別の事項が半ば強引につなげられていながら、なにか不思議とつながっているようにも感じられる。
そういう飛躍を自分が欲していたというか。僕の広野町に対する思い込みも含めて、町の人や町の歴史をつなげてみる。僕の独断と偏見で広野町をみたところはあると思います」
まっさらなところから取材は始まり、自分の興味の赴くまま町をめぐったと明かす。
「まっさらといいつつも、2015年と16年と2回映像教育をやっていたので、その時点で中学生と知り合っているわけです。それとは別でいろいろ探すことにはなりましたけど、この2年間で、なんとなく町の雰囲気や、こういうことについてはこの人に聞けばいいんだなとかいうのは、何となくつかんでいた気がします。
とはいえ、基本としては自分で町のことを調べて、どんどん取材を重ねていきました。たとえば、登場する演劇部の高校生たちは、当時、東京で公演をやっていて、それを観に行きました。これが心に残るもので、すぐに取材をお願いしました。
仮設住宅のみなさんに関しては、仮設住宅自体が2017年3月に完全閉鎖になることが分かったので、町にとって大きなことなので、これはいかないとと。それでとりあえず当てはなかったんですけど、カメラを担いでいって、朝のラジオ体操から始まって、手芸教室やカラオケ大会などに顔を出して、自分を知ってもらってお話しをおうかがいするような形でした。
そうして、出会った人と話をすると、広野町にも炭鉱があったこととか、恐竜の化石のことなど出てきて、それでまたそのことについて深く掘り起こしていく。こういうことの繰り返しでした」
目に見えない町の「震災の爪痕」と「復興」をとらえる
震災や復興に関する題材の作品となると、こちらもなにか象徴するような出来事や問題をどこか求めがちだ。ただ、本作には被災地を想起させるような場面や復興を象徴するような場所がほぼ出てこない。むしろ、町で起きている目に見えない変化と、こちらもある意味、目に見えるものではない、地元の人々の心の軌跡を丹念にみつめようとしている。
島田監督が最初に広野町を訪れた2015年の時点で東日本大震災から4年が経過。このころから取材した2018年ぐらいまでは、目にみえない変化が町に起きているころだった。
『春を告げる町』は、震災云々だけではない、この目にみえない町と人の心の変化をとらえようとしたといっていい。
「当時、僕が取材を始めたときというのは、富岡を含め帰宅困難区域だったとこがいくつもありました。だから原発事故の被害を描こうとするのであれば、それは確実に当時でいえば広野町ではなくて富岡や双葉、大熊に行ったほうが、その大変さや窮状を描けるのだろうなと思いました。
ただ、僕としては震災復興映画にはしたくない気持ちがありました。震災や復興をわかりやすい、たとえば象徴する出来事や建造物といったものに落とし込みたくなかった。変な話ですけど、そのことに必要以上にとらわれて、肩に力が入ってもいた。なので、僕から震災についてとか、あの当時2011年3月11日はどうしていましたか、みたいな質問は相手に一切しないと心に決めて現地にいたりもしました。
でも、それでも自然とおばあちゃんが震災の話をし始めたり、演劇部に行くと復興をテーマに演劇を作り上げていこうとしている。そういうことに直面したとき、『震災』や『復興』を描かないというフィルターもまた自分から外さないとダメだなと思ったんですよね。そこにこだわるのもまた色眼鏡で見ていると。
それで、とにかくいまの現状の広野町を、まず僕自身が1回きちんと受け止めないと、と思いました。僕が思っている以上に、被災地ではまだ『震災』や『復興』について考えてたり、日々その実情を感じている人がいる。逆に、僕が思っている以上にそんなことにとらわれることなく生活してる人もいて、新たな日常を取り戻している人もいる。あるいは、その両方が混在してる人もいる。僕個人の中にも『震災』についていまだにひっかかっていることもあれば、どこかもうふっきれているところもある。広野町という町、地域、社会の中にもそういう両面があって、それがふとした瞬間に出てくることがある。そういうことをそのまま受け入れ、町をまるごと受け止められたらなと。
どこかでそういうなにかにとらわれない気持ちになれたんです。そうなったときに、なにげない町の日常に目が向きました。
僕が広野町を訪れた時期というのは、2011年3月11日が震災始まりだとすると、その始まりが終わるタイミングといいますか。町の問題のフェーズが移行していき、目に見える問題とか課題はなんとなくクリアされた。でも、みんなの中におのおの何となく違和感があるというか。みんな町に戻っては来ているんだけど、何か前の日常と違う日常があることへの違和感があるころだった。そこをみつめた感触はありますね」
震災後の目に見えない町の変化、それはどこかコロナ禍の現在にも重なる
そうした町の目に見えない変化をみつめた作品である一方で、今回のコロナ禍を前にすると、本作はまた不思議と別の側面がみえてくる。それは奇しくも「現在」と重なる。たしかに、ここに登場する人々の言葉や気持ちは、いま届くところがある。そして、そこにはこれからの社会への提言の意味も含んでいるかもしれない。
「先ほど、コロナで自分がふさぎこんだ時期があったとお話ししましたけど、その次に自分の中で不安に襲われたのは、コロナ禍がこれだけ社会に大きな影響を与える中で、『春を告げる町』という映画がこの世の中に拮抗できる強度を持っているんだろうかということだったんです。つまり、この非常事態においてもみるべき作品であるのかと。
ところが、作り手のいいような解釈と言われてしまえば、それまでなんですけど、自分のなかで不思議とコロナ禍と作品が重なってきたんですよね。
自分が自粛生活をしていると、毎日ニュースに触れるわけですけど、日々、なにか違う情報が入ってくる。でも、自分の日常の生活はかわらない。朝起きてもやることがなくて、外に出てなにかすることもできない。時が止まったような日常がある。
そういう日々が続いたとき、ふと思ったんですよね。こういう状態が何年も続いたらどうなるのかなと。それで次の瞬間に頭に浮かんだんです。もしかしたら、あの仮設住宅のおばあちゃんとか、こういう状態が何年も続いていたのかもしれないって。
原発事故の問題とコロナの問題を結び付けたり、安易に比較してもいけない。でも、このような自由がなくなったいまの状況になって、今回登場いただいた人々の言動に触れたとき、きっとみえてくることがある。『復興とは何か』っていう問いを、たとえば『よりよい社会とはなにか』とか、『コロナ後の自分たちがどうありたいのか』ということに、置き換えることができると、いまはそう思っています」
『春を告げる町』
6月1日現在、東京・ユーロスペース、大阪・第七藝術劇場、フォーラム仙台、上田映劇で公開、以後順次全国公開、「仮設の映画館」でも配信継続中。最新の情報は公式ホームページ https://hirono-movie.com/ まで。場面写真はすべて(C)JyaJya Films