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【愛着障害】「かまってちゃん」は親のせいとは言い切れない←元祖心理学者が示唆

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

愛着障害とは一般に、子どもの頃から親との関係がうまくいかなかったことが原因で、さまざまな生きづらさを感じる状態だとされています。

具体的には、親を憎む。親に過度にしたがう。つねに親の顔色をうかがう。恋人など他者との距離感がバグるなどの現象がよく語られています。

ようするに、「親が原因で私がこうなった」というのがよく言われる愛着障害。

ところで、「ホントに親だけが原因かなあ」と言った人がいます。元祖心理学者であるキルケゴールです。

親ガチャにハズレた人

キルケゴールは「親ガチャ」にハズレた人として有名です。彼の父親に対する文句は、彼が書き残した膨大な日記のそこここに見ることができます。父親の具体的なふるまいを挙げてそれがイヤだと書いてある箇所もあれば、「父親=父権=権力の象徴」として社会批判につうじること記している箇所もあります。

さらに、驚くことに、母親に関して彼はほとんど何も書き残していません。膨大な数の日記と著作があるにもかかわらず、です。ある哲学者が言うように、彼は母親のことを心底侮蔑していた、つまり親ガチャに大きくハズレたと思っていた(だから語りたくなかった)のかもしれません。

と、ここまでだと、親ガチャにハズレた現代の私たちと似たようなものです。「親ガチャにハズレた→親を憎む→わたしは愛着障害です→恋愛も仕事もうまくいきません」というシンプルな話です。

しかし彼は、「その先」を考えました。

『源氏物語』は愛着障害のお話?

彼は「その先」、すなわち「親ガチャにハズレたらどうして親のことを憎んでしまうのだろう」と考えました。この発想がじつは現代人にとって、というか特に日本人にとって「新しい」と言えるでしょう。

たとえば、『源氏物語』における光源氏は子どものころ母親を失くした結果、母親に似た女性を探しては女遊びをする、という話ですよね? 「母親ガチャにハズレた→えも言われぬさみしさが原因で下半身がゆるくなった→そんなわが身を憂う」。極端に言えば、このように『源氏物語』の大筋を理解している人もおいでではないでしょうか? 

つまり、親ガチャにハズレた「から」光源氏は不幸になったと理解している人もいらっしゃるのではないでしょうか。

だから、キルケゴールの視点は新しいのです。

分かっているけど、つい・・・

親ガチャにハズレたらどうして親のことを憎んでしまうのだろうと考えたキルケゴールは、「永遠」という概念を提唱します。永遠とは神ではないが神につながっているなにかです。別の言い方をするなら、言葉では割り切れないなにかです。

言葉、すなわち理性で割り切るなら、例えば「私は親ガチャにハズレたけれど、親子のマッチングは運でしかないので、ハズレたという現実を受け入れるしかない」と思うでしょう。

しかし、多くの人は何かが納得できず、光源氏のようにいつまでも「この世にいない理想の親」を探します。

たとえば、ある女性はわざわざホストクラブに行って「理想の愛」を探します。あるいは、他人からはごくふつうの恋愛に見えても、じつは「理想の父親像」を彼氏にかなり投影しつつ恋愛をしている女性がいます。

いずれの女性も「親ガチャにハズレた以上、それを受け入れるしかない」と頭ではわかっています。そう説明すると一定の理解は示すのです。しかし「なぜか」まぼろしを追い求める。

それは親が悪いというよりか、私たちの心に宿る永遠が、私たちになぜか「ありもしない理想郷」を見させるからだ、つまり永遠のしわざだ。キルケゴールはこう考えました。

自分を責めるか、自暴自棄になるか

永遠を提唱したキルケゴールはまた、かの有名な「絶望」という概念も提唱します。その絶望には2種類あると彼は言います。

1つは、親ガチャにハズレたわが運命を受け入れられない自分を責める「弱さの絶望」。

2つ目は、ハズレたけれどしかし、トコトン理想の親を探してみせると息巻く「反抗」。その究極の姿は自暴自棄な生きざまです。

両者に通底するのは「こんな親のもとにオレを生んだのは永遠のせいだ」という彼の考えです。つまり、親は子を選べないし、子も親を選べないわけで、したがって、しいて言えば、親子のマッチングは「神様ガチャ」でしかないと彼は理解したのです。

だから親それ自体を憎むのではなく、その親のもとにこの自分を生み落とした永遠に対して反抗したのです。

そこから先のお話はありません。彼は42歳の若さでこの世を去ったからです。一説には過労が原因と言われています。神様に反抗するって、けっこう体力を消費するようです。

「愛着障害/かまってちゃん」は親のせいとは言い切れない

タイトルに記した「愛着障害や『かまってちゃん』は親のせいとは言い切れない」というのはつまり、親によって生じたあれやこれやは、じつは究極的には、永遠のせい、すなわち私たちの心になぜか宿る「言葉では割り切れない何か」のせいだ、と言えるということです。

では、どうすればいい?

キルケゴールは「ハウツー」は書いていないので、ここでは私が関連があると考えているヴィクトール・フランクルの主張をご紹介しましょう。キルケゴールの「永遠」と、フランクルの言う「精神」は近似であるように思われるので「近い」と考えました。

アウシュビッツから奇跡的に生還した精神科医であるフランクルは、いかに大変な状況に置かれても「人生が」私たちに生きる意味を語りかけていると言います。私たちはその声に耳を澄ませることによって、どうにか生きる希望を見いだすことができる、と――。

拡大解釈するなら、永遠、すなわち私たちの心になぜか宿る「言葉では割り切れない何か=心理学からこぼれ落ちる何か」に耳を澄ませることで、しんどい親子関係がじつは何を意味しているのかを知る。そのことが愛着障害(かまってちゃん)を卒業させてくれると言えるでしょう。

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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