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横浜劇的サヨナラ!  あまりに一致する43年前の「1年生のエースと1番打者」

森本栄浩毎日放送アナウンサー
横浜が9回2死から、1年生緒方の逆転サヨナラ3ランで劇的勝利を飾った(筆者撮影)

 「甲子園は何が起こるかわからない」。初陣を劇的なサヨナラ3ランで飾った横浜(神奈川)の村田浩明監督(35)は、甲子園初采配後のインタビュー台で、その言葉をかみしめていた。(文中敬称略)

横浜、敗色濃厚で最終回へ

 試合は終始、広島新庄ペースだった。先発の宮田和弥(3年)は8回まで1失点でよく踏ん張っていたが、相手の絶妙な継投策にあと1本が出ないままゼロが並ぶ。6回の無死1、2塁では、4番の立花祥希(3年)が送りバントを失敗したあと強攻に出て、併殺に倒れる。新庄の二塁手・大可尭明(3年=主将)が横っ飛びで好捕し、併殺に仕留めたもので、まさに新庄の守りの真骨頂だった。9回に登板した左腕の杉山遥希(1年)が2点目を取られ、横浜は敗色濃厚で最後の攻撃に入った。

1年生が無心でバットを振り抜いた

 6、7番の連打で同点機を迎えるも、2死となり、1番の緒方漣(1年)が打席に入る。甲子園デビューとなった第1打席では初球を中前に打ち返したが、続く打席でバントを失敗してから精彩を欠いていた。「3年生と少しでも長く野球をやりたいと思っていた」というルーキーは、無心でバットを振り抜く。打球は低い放物線を描き、あっという間に無人の左翼席へ吸い込まれた。横浜ベンチから飛び上がって出てきた選手たちが手荒い祝福を浴びせる。甲子園にニューヒーローが誕生した瞬間だ。

入学早々、レギュラーになった緒方

 「夢のような打席。人生で一番いい当たりだった」と興奮気味に話す緒方は、去年の今ごろはまだ中学生だった。甲子園で春夏5回の優勝を誇る横浜は、全国の中学球児の憧れでもある。毎年のように、「我こそは」と腕に自信のある中学生が挙るだけあって、レギュラーはもちろんのこと、背番号をもらうことすら、並大抵ではない。一度も公式戦に出られずに卒業する選手も少なくないことを考えれば、緒方がどれくらいすごい選手かがわかる。

43年前の「1年生のエースと1番打者」

 結果的に、9回に登板した杉山に勝ちがついた。村田監督は、杉山にも「横浜のエースになってほしい」という思いを込めて、甲子園でエースナンバーを与えた。「1年生のエースと1番打者」。このキーワードで思い出した選手がいる。若いファンはご存じないと思うが、43年前の昭和53(1978)年の60回大会で、横浜の1年生エースだった愛甲猛(元ロッテ)と1年生で1番セカンドだった安西健二(元巨人)だ。緒方と杉山は、43年前の「レジェンド」とあまりに一致することが多く、これにも驚かされる。

「レジェンド」の二人はのちに全国制覇

 愛甲は杉山と同じ左腕で、甲子園デビューとなった徳島商戦で完投勝利を挙げた。43年後、杉山はデビュー登板で勝ち星を手にした。さらに驚くのは、安西が、徳島商戦で本塁打を放っていたのだ。当時、「スーパー1年生」などという言葉はなかったと思うが、愛甲と安西は、あっという間に横浜の投打の柱として全国のファンに認められた。そして2年後の夏に、横浜にとって初の選手権優勝の立役者となる

名門・横浜を支える投打の柱に

 「杉山が点を取られたので何とかしたかった」と緒方が杉山を思いやったように、二人はこれから長く、名門・横浜の屋台骨を支えることになる。かつて、愛甲と安西が成し遂げたように、甲子園の優勝という栄光も、「レジェンド」にあやかりたいものだ。

毎日放送アナウンサー

昭和36年10月4日、滋賀県生まれ。関西学院大卒。昭和60年毎日放送入社。昭和61年のセンバツ高校野球「池田-福岡大大濠」戦のラジオで甲子園実況デビュー。初めての決勝実況は平成6年のセンバツ、智弁和歌山の初優勝。野球のほかに、アメフト、バレーボール、ラグビー、駅伝、柔道などを実況。プロレスでは、三沢光晴、橋本真也(いずれも故人)の実況をしたことが自慢。全国ネットの長寿番組「皇室アルバム」のナレーションを2015年3月まで17年半にわたって担当した。

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