【九州三国志】龍造寺政家、波瀾万丈の生涯!その背後で蠢く鍋島直茂の影
肥前の地に龍造寺隆信の嫡男として生を受けた政家は、初め「鎮賢」と名乗り、のちに名を改め「政家」となりました。
しかし、彼の人生はその名の如く政治を家に収めるどころか、己の家を次第に他者に譲り渡す、ある種滑稽かつ憐れな運命を辿ったのでございます。
隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、政家は国政の座に据えられるも、もはやそこに往時の龍造寺氏の威光はなく、島津氏の侵攻の波は勢いを増すばかり。
しかも肥前国における真の采配は、すでに宿老・鍋島直茂の手中にありました。
時の流れは非情にも政家を脇役に追いやり、豊臣秀吉から羽柴の名を賜ろうとも、権勢の流れは鍋島へと傾きます。
秀吉に叱責されるたび、直茂が政家の弁解を担う――この姿はまるで器用な執事が無能な主人を守る喜劇のようでもあったのです。
そして、関ヶ原の後、龍造寺家の灯は儚くも消え去り、佐賀藩として鍋島家がその遺領を継ぐこととなるのでございます。
最後は政家の子・高房が江戸で起こした騒動により命を落とし、政家もまた後を追うように逝去されました。
こうして、かつての肥前の覇者・龍造寺宗家は歴史の影に消え、肥前には鍋島の時代が幕を開けるのでございます。
なんとも、世の浮き沈みとは皮肉なものにございますね。