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【九州三国志】慶誾尼――押しかけ女房の妙計!そして龍造寺家の未来を託した女傑

華盛頓Webライター
credit:pixabay

慶誾尼(けいぎんに)は、1509年に龍造寺胤和の娘として生まれました

一族結束のために水ケ江龍造寺家の周家に嫁ぎ、嫡男の隆信を授かります

彼女の活躍は、一族を救い、未来を切り拓く壮大な物語の幕開けとなりました。

龍造寺本家と水ケ江家は二代前に分家した間柄ですが、家兼という非凡な家老が実権を握り、本家を事実上の傀儡としていました。

しかし、その影響力を危険視した少弐家の家臣・馬場頼周の策略で家兼は危機に陥ります

頼周のだまし討ちにより龍造寺家は壊滅寸前となりますが、家兼は筑後の武将・蒲池鑑盛の助力を得て逆襲。

頼周を討ち取り、一族の仇を晴らしました

その後、家兼は93歳で亡くなり、一族の中核は慶誾尼とその幼い息子・隆信に委ねられます。

家兼亡き後、当主胤栄も病死し、隆信が家督を継ぎましたが、家臣たちの反発を受け、内紛状態に陥ります

この危機に慶誾尼は大胆な策を講じました。龍造寺家臣の鍋島清房は妻を亡くしたばかりであり、彼に新しい伴侶を見つけると申し出ます。

しかし、いざ清房が出迎えた女性はなんと慶誾尼本人でした。

かくして、未亡人となった48歳の慶誾尼は44歳の清房と再婚し、鍋島家との絆を強化しました

こうして隆信と清房の息子・直茂は義兄弟となり、後の龍造寺家の全盛期を築く基盤が整えられたのです。

母としての顔もあれば、時には軍師のような冷徹さも併せ持つ慶誾尼

1570年、今山合戦では大友宗麟の侵攻に対し、直茂の奇襲案を支持し、敵将を討ち取るという劇的な勝利を収めました

一方、敵将を助命する慈悲深さも持ち合わせており、武士道を重んじる姿勢は家中の模範となりました。

しかし、1584年の沖田畷の戦いで隆信が戦死。

慶誾尼は悲しみに暮れる間もなく、鍋島直茂に龍造寺家の行く末を託します

「龍造寺家の未来を守れるのは貴方しかいない」と説き伏せた彼女の信念により、鍋島家は藩祖として佐賀藩を築くこととなりました。

92歳でこの世を去るまで、一族の柱として活躍し続けた慶誾尼

その姿は、龍造寺家を導き、未来へと繋いだ女傑として、後世に語り継がれています。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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