【「麒麟がくる」コラム】いよいよ芦田愛菜さんが細川ガラシャ役で登場。ガラシャはどんな女性だったのか?
■光秀の娘ガラシャ
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」には、いよいよ芦田愛菜さんが細川ガラシャ役で登場する。ガラシャは有名な女性であるが、どのような女性だったのだろうか。
永禄6年(1563)、ガラシャは父・明智光秀、母・熈子の三女として誕生した(異説もあり)。諱は「たま(玉または珠)」、「玉子」という。誕生したのは、越前国だったといわれている。
■細川忠興と結婚
のちに光秀が織田信長に仕えた縁もあり、その媒酌によって、山城国勝龍寺城(京都府長岡京市)主の細川藤孝(幽斎)の長男・忠興と結婚した。天正6年(1578)のことである。ともに16才という初々しいカップルであった。幸せいっぱいだったに違いない。
結婚の翌年には長女を授かり、その翌年には長男の忠隆が誕生するなど、子宝にも恵まれた。二人の夫婦生活は、万事順調であったといえるであろう。天正8年8月、ガラシャは夫の移封に伴い、勝龍寺城から丹後宮津城(京都府宮津市)に移った。
■本能寺の変という悲劇
天正10年6月の本能寺の変は、忠興・ガラシャ夫婦を不幸のどん底に陥れた。こともあろうに、信長を自刃に追い込んだ張本人は、ガラシャの父・光秀だったからである。そして、ガラシャは「反逆人の娘」として、丹後国味土野(京都府京丹後市)での幽閉生活を余儀なくされたのである。
なお、味土野は現在の京都府京丹後市弥栄町ではなく、丹波国船井郡三戸野(京都府京丹波町水戸)だったという説が提起されている。
2年後の天正12年になって、ガラシャはようやく許された。忠興とガラシャは、再び大坂玉造(大阪市玉造)で生活を共にすることとなった。その翌年には次男の興利、さらにその翌年には忠利が誕生した。再び幸福は舞い戻ったのだ。
一方、ガラシャはその美貌で知られ、秀吉から参上するように命じられた。そのとき、ガラシャは短刀を懐に隠し、いざというときの覚悟をしていた。それを知った秀吉は、その心掛けをかえって褒めたというエピソードが残っている。
■ガラシャとキリスト教
同じ頃、ガラシャは忠興の同僚である高山右近からキリスト教の話を聞き、密かに関心を寄せていた。天正15年、ガラシャは夫の忠興が九州出兵に参陣中であるのを見計らい、小侍従とともにイエズス会の教会を訪れたという。
そこで、ガラシャは初めてキリスト教の説教を聞き、その教理などについて質問を行った。聡明なガラシャの質問は的確であり、応対したスペイン人の宣教師も驚くほどであったと伝わる。
やがて、この事実は細川家の家臣が知るところとなり、ついにガラシャは外出を禁じられた。しかし、ガラシャは小侍従を教会で学ばせ、間接的に教理を学ぼうと努力した。のちにガラシャは受洗するが、再来日したヴァリニャーノはその熱心さに驚き、わざわざ使者を送ったという。
■悲劇的な最期
慶長5年(1600)9月に勃発した関ヶ原合戦は、再びガラシャの運命を変えた。合戦前の同年7月、ガラシャは石田三成から大坂城へ入るよう指示されるが、これを拒否。忠興が東軍に属していたので、安易に敵方に身を投じるわけにはいかなかったのだ。
その後、ガラシャは屋敷のなかで、家臣の小笠原少斎に刀で胸を突かせ亡くなったという。あえて家臣に刀で胸を突かせたのは、キリスト教では自殺が禁止されているからだった。忠興は、キリスト教式の盛大な葬儀を執り行ったという。ガラシャのことは海外にも伝わり、その生涯は戯曲として演じられた。