「ちむどんどん」にもつながる沖縄ブームの先駆けに。30年前に届けたオキナワ・カルチャーの新たな波
現在、デジタルリマスター版が劇場公開中の「パイナップル ツアーズ」は、のちにNHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」などで巻き起こる「沖縄ブーム」に先んじて発表された作品だ。
手掛けたのは、琉球大学映画研究会で出会った沖縄生まれの真喜屋力と當間早志、大学入学後に沖縄にハマってそのまま住むことになる中江裕司。
当時、まだ20代だった真喜屋と當間、そして30代になったばかりの中江らが沖縄芸能を代表するエンターテイナーたちと作り上げたこのオムニバス映画は、1992年に公開されると大きな反響を呼んだ。
それから30年、いま本作と向き合って体感するのは、まぎれもない本物の「オキナワ」といってもいいかもしれない。
沖縄ブームによって固定化された『澄み渡った空と蒼い海、癒しの楽園』といったイメージ化されたキラキラした沖縄ではない。
すべてが総天然色のようで美しくもあれば毒もある、ギラギラした原色のままの沖縄がここにはある気がする。
ご存知のように今年5月15日、沖縄は本土復帰50周年を迎えた。
各種メディアで一斉に報じられたので、改めて沖縄について考える機会をもった人も多かったのではないだろうか?
最初の劇場公開から30年を経て、いま改めて本作は沖縄の何を語り、何を伝えるのか?
中江裕司監督と真喜屋監督の二人に訊く。(全五回)
沖縄のカルチャーの発信者たちがワッと集まってきて、
気づいたらひとつの輪になっていた
はじめに、両監督にとって本作はデビュー作。当時、どのようなことを考えて作品には臨んでいたのだろうか?
中江「いま振り返ると、『パイナップル ツアーズ』の劇場公開の少し前、1990年ぐらいから、沖縄の独特のカルチャーが本土で注目を集めるようになってきていた。
沖縄のカルチャーを代表するエンターテイナーである照屋林助さん、その息子の『りんけんバンド』の照屋林賢さん、さらに笑いを軸にした劇団『笑築過激団』など、まさに『パイナップル ツアーズ』に携わってくださった方々が、音楽、漫談、舞台をはじめさまざまな形で独自の表現を発信して注目を集めつつある時期だった。
また、注目を集めつつある中で、『これ、沖縄だけじゃなくて、意外と本土や海外の人もおもしろいと思ってくれるんじゃないか、沖縄以外でも通用するんじゃないか』という気運の高まりみたいのもあって。
僕らが『パイナップル ツアーズ』の企画を立ち上げて、『映画を作る!』となったときに、沖縄のカルチャーの発信者たちがワッと集まってきて、気づいたらひとつの輪になっていて作ったような感覚があるんですよ。
だから、監督が主導してじゃない(笑)。
みんな勝手に集まってきてお祭り騒ぎで作り上げたというか。
だから、当時の沖縄の雰囲気というのはものすごくよく『パイナップル ツアーズ』には刻まれている。
フィクションでありながら当時のドキュメンタリーみたいなところがこの映画には映っていると思います。
なので、もちろん監督として現場に立っていて、いろいろと考えていたとは思うんですけど、お祭り騒ぎの渦中に自分も入っていた感じですね(苦笑)」
当時、時折目にするドラマや映画での沖縄の描かれ方は違和感があった
真喜屋「僕らは沖縄本土復帰闘争の後に生まれ育った世代で。
僕は幼稚園のころに本土に復帰した。
だから、当然、沖縄戦を経験していないし、本土復帰を目指しての闘いも知らずに育っている。
また、那覇の出身ということもあって、アメリカ軍基地の問題ともちょっと距離がありました。
そういう僕みたいな世代からすると、当時、時折目にするドラマや映画での沖縄の描かれ方は違和感があったというか。
ほとんど届けられるものが、沖縄の悲劇に焦点を当てたもので。なんか『沖縄のみなさん、こんな悲劇を生んでしまって申し訳ない』と謝られているような作品ばかりで、戦争も本土復帰の闘争も知らない僕からすると『そういわれても』となんだかこそばゆい感じになる。
その一方では、ほんとうに夢物語。もうリゾートしての沖縄だけにしか視点を置いていないものがあって。これはこれで僕からすると、違和感があって、沖縄を描いているとは思えない。それから、細かいことになりますけど、方言がぜんぜん間違っていたりもして余計に違和感を抱いてしまう。
そうじゃない、もっと沖縄で実際に生きてる僕らの生活の中には『こんなにおもしろい文化や風土があるんだ』と思わせてくれる作品ってほぼなかった。
『沖縄にはこんなにおもしろいことがある』というのを当時やり始めていたのが、さきほど話に出ていた照屋林助さんであったり、『りんけんバンド』であったり、劇団『笑築過激団』だったんです。
だから、当時の僕としては、悲劇の沖縄でもなければ、楽園リゾートの沖縄でもない、沖縄で生きる僕らがおもしろいと思うものをドーンと押して出していく感じの映画が作りたい思いがありました。
おそらく僕も、中江も、當間も、僕らが『沖縄』で生きてきておもしろいと思うものを、監督として作って見せたい気持ちがあったと思う。
でも、実際は、さっき中江が言った通りで、沖縄のいろいろな表現者たちがこの作品のもとに押し寄せてきて、そのパワーやうねりみたいなものに巻き込まれていって、監督うんぬんではなく一緒に作品を作っていった感じでした(笑)。
後付けになってしまうんですけど、振り返ると、ひとりの作り手としてはそれまでとは格段に世界が広がったと思います。
それまで大学の映画研究会で作っていたのは学生映画で、自分たちの大学周りの話ぐらいでとどまっていた。
言葉も沖縄の方言ではなく、標準語で作っていた。当時の僕らからするとそれが『映画らしいもの』でひとつの安心材料だった。
沖縄の方言で撮るとか、誰にもわかってもらえなくなってしまうのではないかと考えて、それは映画でなくなってしまうのではないかと思ってしまっていた。
でも、『パイナップル ツアーズ』に挑むときには、その考えが一新されていたというか。
『方言で全然いい、言葉がわからなくてもこのおもしろさは必ず伝わる』と自信をもつことができる空気感があった。
それは当時の沖縄のカルチャーの発信者にそういう空気があったし、当時の沖縄という土地にもあった気がする。
これまでにない沖縄を描けるのではないかという気持ちはありましたね」
1992年の劇場公開時は、本土に沖縄を語らせるのではなく、
自らが沖縄についての何かを発信しようとしていた
その中で、本作は、のちに起きる沖縄ブームの先駆けとなるような大きな反響を得ることになる。
このことをいまどう受けとめているのだろうか?
中江「今年、本土復帰50年ですけど、この作品が公開された当時が復帰20年ですよね。
当時と今年の空気を比べたら、もう雲泥の差です」
真喜屋「そうだね」
中江「当時の沖縄はものすごくおもしろかった。
みんながいろいろと考えて、本土に沖縄を語らせるのではなく、自らが沖縄についての何かを発信しようとしていた。
でも、今年は、うんともすんとも言わない。印象としては」
真喜屋「まあ……」
中江「もう、みんな『本土復帰50年、本土のマスコミが勝手に盛り上がるのね』みたいな冷めた感じで見ている。沖縄では。
本土復帰20年のときは、それこそ『俺らが打って出るときだ』という気運があった気がする」
真喜屋「確かに。
どこか本土に押し付けられた沖縄のイメージではない、沖縄で育まれたものを見せてやろうみたいな空気はあった。
特に僕らの中にはあった気がする」
(※第二回に続く)
「パイナップル ツアーズ デジタルリマスター版」
総合プロデューサー: 代島治彦
監督・原案・編集: 真喜屋力、中江裕司、當間早志
撮影: 一之瀬正史 録音: 滝澤修
音楽:照屋林賢+りんけんバンド
出演: 兼島麗子、新良幸人、富田めぐみ、利重剛、宮城祐子、照屋林助、
津波信一、仲宗根あいの、洞口依子、藤木勇人、平良とみ
全国順次公開中
場面写真はすべて(C)スコブル工房