戦国時代の結婚。新郎は起請文を捧げて永遠の愛を誓っていた
最近のニュースによると、婚活アプリで出会った人にお金を騙し取られたという事件があった。こちら。気をつけてください。結婚といえば、結婚式で新郎が新婦を幸せにするという「誓いの言葉」を述べることがある。戦国時代にも類した例があるので、紹介することにしよう。
陸奥国の矢田野顕義は、同じく陸奥国滑津城主の船尾昭直の娘を娶ることになった(「秋田藩採集文書」)。矢田野氏は二階堂氏の流れを汲む名族であり、船尾氏は佐竹氏の家臣であった。両者が婚姻関係を結んだ経緯は、あまりよくわかっていない。
顕義が昭直の娘を娶る際には、昭直の室に起請文が提出されていた。起請文とは、自分の行為や言葉に嘘や偽りのないことを神仏に誓い、相手に表明する文書である。厳守すべき事項を記した前書の部分と、違反した場合に神仏の冥罰を蒙る旨を記した神文の部分から成っている。
顕義の起請文の内容とは、昭直の娘に結婚の先約があったらしく、そこを曲げて顕義が娘との結婚を懇望しており、「その気持ちは決して忘れない」と記されている。次に、昭直の娘に対して、「なおざりなことはしない」ことを誓約したのである。
万が一、顕義がこの誓いを破ったならば、梵天・帝釈以下の罰を蒙ることを誓約した。顕義の花押の下には、「血判」と朱書されており、相当な覚悟をうかがうことができる。このように、結婚する際には、起請文の提出を求められることもあった。おそらく両者は対等な関係ではなく、船尾氏の方が上位だったのかもしれない。
次に見るのは、結婚の際に占いが行われていた事例である。こちらも現在では、結婚がうまくいくか否なのか、占いに頼る人がいるはずである。戦国大名の毛利秀就(輝元の子)は、結婚に際して、占いで吉凶を占っていた(「毛利家文書」)。
随分と長い史料であるが、結論をかいつまんで言うと、史料中に「御縁辺目出度ヲワシマシ」(ご結婚はめでたいことです)とあることから、良い結果が得られたと考えられる。
そして、結婚することによって、「一方の大将になるだろう」と記されている。このケースは、戦国時代末期から近世初頭にかけての事例だが、このように占いで結婚の吉凶を占った例はほかにもあったと推測される。
占いに頼るといえば、いい加減なように思えるが、当時の人々の中には、「神意」に委ねることを一つの手段として用いることがあった。かなり厳粛な儀式だったのである。
しかし、この占いは外れたようで、秀就は一方の大将どころか、のちに藩内の統制もままならない状況に陥ったのである。