ニンテンドーDS ゲームの“常識”を変えた携帯ゲーム機
任天堂のゲーム機「ニンテンドースイッチ」が売れすぎて品不足になっていますが、15年前にそれを上回る勢いで売れた“伝説”の携帯ゲーム機があります。年間出荷数は“前人未踏”の3000万台(しかも2年連続)で、累計出荷数は1億5402万台。ゲーム業界の“常識”を変えた「ニンテンドーDS」シリーズです。最も売れた携帯ゲーム機の“規格外”の歴史を振り返ります。
◇「異質な商品」 当事者以外は理解できず
2003年、任天堂は、携帯ゲーム機「ゲームボーイアドバンス」の売り上げこそ好調でしたが、期待された家庭用ゲーム機「ゲームキューブ」は今一つで、ライバルのソニーに遅れを取っていました。
2003年夏、任天堂のトップになって間もない岩田聡社長(当時)は自社の会見で、ライバル・ソニーが自社開発したUMD(光ディスクの規格Universal Media Disc)を用いた新商品(後のPSP)について言及、任天堂の限界説を唱える声に反論しながら「(我々も)異質な商品を出す」という謎の言葉を残したのです。会見に出席していた私は「異質な商品とは新型ゲーム機?」と推測しつつも、「異質」の真意がつかみきれませんでした。
そして2004年1月、「『二画面』新携帯ゲーム機の発売に関して」と題した任天堂の発表に、業界関係者やゲームファンがざわつきました。二つの画面があるという見たこともないゲーム機だったからです。そのリリースには、ゲーム機の高性能化の行き詰まりを指摘する非常に先見のある内容でした。しかし、当時のゲームファンの評価はさんざんで、任天堂がソニーの後塵を拝していることから「負け惜しみ」といった反応で、「二画面でゲームが面白くなるわけがない」と批判ばかりでした。
【参考】任天堂リリース 「二画面」新携帯ゲーム機の発売に関して(2004年1月21日発表)
2004年5月、世界最大のゲーム見本市「E3」でゲーム機を披露します。その直後、東京・浅草橋にある任天堂の東京支社に記者を集め、体験会を開催しました。タッチパネルの操作感も良く、ユニークな機能もあり、特に一般紙の記者の食いつきがよかったことから、それなりに評価されていたのを覚えています。後の2006年に発売される家庭用ゲーム機「Wii」でも、ゲームのマンネリを打破するため「Wiiリモコン」を持ち込み、「操作方法のリセット」を図りました。DSもタッチパネルという操作方法を持ち込んでいたから、“先駆者”と言えますね。
そして2004年11月、発売されたDSはそれなりに売れましたが、希望すれば普通に買えるレベルでした。1年半後に“大混乱”が待ち受けていることは、この段階で誰も予想していません。
◇象徴「脳トレ」の大ヒット
発売後、任天堂は地道に、DSの体験会を各地で開きます。DSのタッチパネルは触ってもらわないと商品の魅力が分かりづらいからです。地味な体験会ですが、DSの面白さはじわじわとゲームファン以外にも伝わっていきます。まず、子犬を疑似的に飼うゲーム「ニンテンドッグス」が女性層を開拓します。ちなみに同作は、3種類のタイプがあり、最終的に約2400万本の出荷を記録しました。
ですが、それを上回るキラーソフトが登場します。DSの発売日当日、岩田社長はあるサンプルソフトを手に、東北へと足を運びました。訪問先は東北大・川島隆太教授です。そこで2人は意気投合し、わずか半年後の2005年5月に「脳を鍛える大人のDSトレーニング」が発売されます。
【参考】社長が訊く『東北大学加齢医学研究所 川島隆太教授監修 ものすごく脳を鍛える5分間の鬼トレーニング』
DSの成功の象徴で、ゲーム史に残る傑作「脳トレ」ですが、最初は誰もがその恐ろしさに気づきませんでした。当時ゲーム業界には、「ゲームの売れ行きは、発売2週間後で決まる」という“常識”がありました。これはソフトは最初の2週間で最終出荷の7~8割が出る傾向があるためです。あくまで原則ですが、初週に売れないソフトは「ダメ」扱いされる面がありました。
「脳トレ」の初週の販売数は約4万本でしたから、メディアも最初の反応は、普通、いや「どうでもいいゲーム」という認識だったでしょう。ところが同作は週を重ねても売り上げが失速することなく、数を重ねていきます。「敬老の日」にはゲーム機とソフトを祖父母にプレゼントするという現象が起き、半年かけて人気ゲームの指標となる100万本を突破します。最終的に世界で1900万本、続編を入れると2タイトルで約3400万本を出荷することになります。
「脳トレ」のすごさをメディアが理解した2005年12月。任天堂は都内で会見を開き、人気絶頂だった女優・松嶋菜々子さんをCMに起用し、「脳トレ」の続編ゲーム「もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング」などをアピールしました。松島さんがゲームをプレーしながら「(脳年齢が)52かよ!」と言うインパクトのあるCMなので覚えている人も多いのではないでしょうか。そして年末商戦に、DSは飛ぶように売れました。
しかし年末の売れ行きは「ジャブ」のようなものでした。任天堂は2006年1、DSを小型・軽量化した「ニンテンドーDSライト」を2006年3月に投入すると発表し、ゲーム史に残る“狂騒曲”が始まります。発売日の早朝、都内の各家電量販店には、それぞれ数百人以上が長い列を作りました。若者だけでなく、これまでゲームを買わない女性や高齢者の姿もあったのです。商品は即座に売り切れ、DSは慢性的な品不足になります。私も当日朝の騒動を取材しましたが、朝早く来たのにDSライトを買えず、涙目で帰っていった子供の姿は忘れることができません。
DSの大ヒットは、ゲーム業界が今までに見たことがないものでした。子供だけでなく、大人や高齢者も買い求めたことを考えると、1980年代前半のファミコンのヒットをも超える勢いがありました。いや、予想を上回りすぎたとすら言えます。メディアとゲームファンは、「異質な商品」の真の意味、そしてゲーム市場が抱く巨大な可能性をやっと理解したのです。
◇超格安開発ゲームの大ヒット
DSの初年度(2005年3月期)の年間出荷数は527万台で、翌年度は1146万台。2007年3月期は2356万台、そして2008年3月期には3031万台、次年度も3118万台と売れに売れました。
特筆するのは、DSの“顔”となった「脳トレ」は、少人数・短期間で開発した“格安”ゲームであることです。そのため続編の「もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング」も絶妙のタイミングで発売できました。それまでは、ゲーム機をけん引するのは、「ドラゴンクエスト」シリーズや「ファイナルファンタジー」シリーズなど、続編ものの大ヒットゲームとされていました。ところが、低開発費の2本の「脳トレ」が、これらのビッグタイトルをしのいだ事実は、「アイデア次第でヒット商品が作れる」と開発者を勇気づけました。
ソニーは、2006年に高性能のゲーム機「PS3」を出しますが、1億5000万台を出荷したPS2のようにいかず苦戦します。PS3より性能面で大きく劣るDSのヒットは、ゲーム機の単純な高性能化にストップをかけ、何を捨てて何を入れるのかアイデアの重要性を認識させました。そしてDSと同じく「異質な商品」だったWiiのヒットも重なり、その流れは決定的となります。DSは業界の“常識”を変えてしまいました。
◇スイッチに岩田社長の考えも
DSを語る上での最重要人物と言える、岩田社長は2015年に病に倒れ、返らぬ人となってしまいましたが、現在ブレーク中の「ニンテンドースイッチ」にも、岩田社長の考えが脈々と息づいているのは、知られている話です。
【参考】10 Things Nintendo's Shigeru Miyamoto Told Us About Switch and More(TIME)
こうなると、亡くなられて5年も経つのに、いまだに岩田社長の手のひらの上で踊っている気すらします。今では、ゲーム会社がネットで最新情報発信をするのは当たり前になりましたが、これも岩田社長が流れに乗せたことでした。
個人的な意見で恐縮ですが、岩田社長へのインタビュー取材は、とにかく言葉の使い方が巧みで分かりやすく、そして楽しく、あっという間に時間が過ぎたのを覚えています。それは、企画と開発、経営、宣伝のいずれの分野も経験しているからくる絶妙のバランス感なのかもしれません。
ニンテンドー3DSやWii Uが無料のスマホゲームに押されて思うようにうまくいかず、赤字になりながらも業績を立て直したこと、スマホゲームへの進出するタイミングとその後の成果、そしてスイッチでの再度の逆転劇はドラマチックです。それだけでなく、ゲームファンからも本当に愛されていました。ゲーム業界は、失ってはならない人を失ったと改めて思うのです。
◇DSの保有率約2割 3DSやスイッチと差わずか
そしてDSの武器「タッチパネル」、ゲームファン以外のあらゆる層をターゲットにする哲学は、「ニンテンドースイッチ」にも息づいています。
ゲーム業界団体のCESAが発行する「2020一般生活者調査報告書」によると、2019年時点でのDSの保有率は、いまだに19.7%もあります。ニンテンドー3DS(24.4%)とニンテンドースイッチ(22.6%、ライト含む)に続く高い数字なのです。なおスイッチでも「脳を鍛える大人のニンテンドースイッチトレーニング 」が出ています。
2割が持っているということは、ニンテンドーDSが倉庫の奥で眠っている家庭も多いのではないでしょうか。新型コロナウイルスで外出自粛の今、“伝説”を作った携帯ゲーム機を手に、その偉大さと懐かしさに浸るのも一興かもしれません。