Yahoo!ニュース

「日高屋」創業者、神田正会長83歳が若き経営者に贈る戦略の話 連載3回その1

千葉哲幸フードサービスジャーナリスト
「日高屋」創業者、神田正会長は6人の若手経営者に講話を行った(筆者撮影)

「日高屋」の創業者であり、株式会社ハイデイ日高代表取締役執行役員会長の神田正氏より、これまで会社経営に尽力してきたことを、飲食業の若手経営者6人が拝聴する機会を持つことが出来た。そこで神田氏が話した内容、若手経営者との質疑応答で交わされたことをまとめて、3回に分けて紹介する。

神田氏は1941年2月生まれで現在83歳。創業の店「来々軒」を立ち上げたのは1973年2月のことであった。以来51年を経て総店舗数は440を超え、年商は500億円を超える勢いにある。神田氏は、これまでどのようにして事業を拡げていったのか、そのときのマインドはどのようなものであったのか。これらを「若き経営者へ贈る戦略の話」として綴っていく(参加した経営者6人それぞれの事業の内容は連載第3回で紹介する)。*第2回は5月15日公開、第3回は5月17日公開。

コロナ禍を乗り越えて新たな飛躍を見渡す

まず、「日高屋」を展開するハイデイ日高の業容をまとめておく。

同社の2024年2月期決算の概要はこうなっている。

・売上高487億7200万円(増減率27.8%)

前年同期比は381億6800万円で今期は27.8%の増加。前年同期比で100億円以上を積み上げていることが注目される。

これらの要因として、コロナが5類に移行したことに伴う人流の回復、2023年3月の価格改定後も来店客数が伸長したこと、創業50周年記念感謝祭等を実施したこと、コロナ禍で短縮した営業時間を延長したこと、といったことを挙げている。

・営業利益46億3700万円(増減率653.2%)

・経常利益47億5600万円(増減率92.5%)

・当期純利益32億3300万円(増減率112.8%)

2024年2月末の店舗の布陣はこうになっている。

・総店舗数449店

東京都203、埼玉県110、神奈川県73、千葉県55、茨城県6、群馬1、栃木1。これらに加えて、これからは静岡県、長野県、新潟県、福島県での展開も視野に入れ、600店舗体制を目指すとしている。

JR大宮駅前にはハイデイ日高の店舗が多数展開していて、繁盛を呈している(筆者撮影)
JR大宮駅前にはハイデイ日高の店舗が多数展開していて、繁盛を呈している(筆者撮影)

コロナ禍にあって飲食業界は苦戦を強いられたが、ハイデイ日高も同様である。この間に奮闘してきたことが、2023年に入って大きく開花したものと受け止められる。

ここから神田氏の「若き経営者に贈る戦略の話」を綴っていくが、第1回では神田氏の生い立ちと、「ラーメン屋」という商売に出合うことになったきっかけ、そして起業して「ラーメン企業」として大きく飛躍することになった経緯を以下に紹介する。

定職に就かない青年がラーメンに出合うまで

神田氏は昭和16年(1941年)2月に4人兄弟の長男として、埼玉県川越市に生まれた。父は軍隊に徴用されて、終戦後に帰ってきたところ満足に働くことが出来ない体になっていた。

そこで、母がゴルフ場のキャディとして働きに出た。神田氏も毎週土曜日と日曜日にキャディのアルバイトをして家計を助けた。

中学を卒業後には町工場で働いた。しかし長くは続かず、仕事先を14回程度変えた。その後、ゴルフ場でキャディとして働き、レッスンプロになった。22~23歳の当時のことだが、ここでの将来像を描くことが出来ずに3年程度でゴルフ場を辞めた。

たまたま大宮のパチンコ店に入った。そこで「パチプロ」の存在を知った。「朝ゆっくりと起きて、誰からも拘束されることがない、いい商売だなと思った」という。

そこでパチプロに転向。「普通の勤め人の2倍ないし3倍くらいの収入を得ていた」という。しかしながら、「このままではダメだと、いつも心のどこかで思っていた」(神田氏)。パチプロは1年程度で辞めた。

このとき、友人から「ラーメン屋で働かないか」と誘いを受けた。これが神田氏とラーメンとの出合いであった。仕事は出前持ちがほとんどだったが、「ラーメン屋は毎日現金が入ってくる商売だ」ということを目の当りにして、「ラーメン屋になろう」と決意する。このとき25歳。

最初の店には1年半くらい勤めた。その後は、新しい勤め先でラーメンの技術をちょっと覚えて、給料を上げたいという思いで別の店に移っていった。こうしてラーメン店を渡り歩いた。

昭和43年(1968年)に埼玉県岩槻市内のラーメン店で働いた。しかし、その店はしばらくして閉店。働く意欲がわいた途端の失業だった。不安を抱えながら過ごしていたが、天から一条の光が差した。ある人が「私が保証人になるから、ラーメン屋をやらないか」という。

欲が出て事業に失敗、しかし再びラーメン店を興す

その人物は、それまで神田氏の働きぶりを見ていた。

「神田さんは、自分がつくるラーメンをお客様に売り込んで、食べ終えたとき熱心に印象を聞いていた。とても一生懸命な青年だった」という。

神田氏は、再び店に立った。朝9時から夜9時までの営業。さらに延長して3時まで営業することに。寝る間を惜しんで働いた。神田氏の弟も店を手伝った。このとき27歳。頑張ったかいもあって1年半で利益が上がった。

このとき神田氏に欲が出た。スナックを開業することに。「スナックは楽をして儲けられる」と思っていたという。そこで妹を呼んでここで働いてもらった。

しかし、二足の草鞋は長く続かない。ラーメン店、スナック共に閉店した。

岩槻での事業をたたんで、ふらりと大宮に飲みにいった。そこでたまたま「貸店舗」という張り紙を見つける。電話をしたところ「空いている」と。そして「大宮でラーメン店を始めよう」と決意した。自己資金での再出発である。

【1973年2月に創業】

その物件は元居酒屋で、間口が2間半、奥行2間のわずか5坪で6席であった。そこで、朝4時まで営業した

店内のお客はフルで6人だが、それと同じくらいの数の従業員がいた。それは出前専門の従業員。彼らは店の中に入らず、外で出前の商品が出来上がるのを待っていた。「出前ができたよ」というと、店の中に入って、それを受け取って届けに行く。この仕組みが軌道にのった。好機到来と感じた神田氏は大宮の別のところに2号店を出すことを決意。ここもいきなり大繁盛した。このとき31歳。

大宮に出てきて5年が経った32歳の当時、神田氏は大きな選択が迫られた。それは、これまで自分と、弟、妹の連れ合いの3人で頑張ってきたところ、二つの店が繁盛していたことから、「これからそれぞれ独立して、店を1店舗ずつ持とうか」、それとも「ラーメン屋を企業にできないか」と、このどちらかを選択するということだった。

そして神田氏は、あるとき二人に誓った。

「これから大宮から浦和を通って赤羽まで『来々軒』の提灯をつなげちゃうよ」と。それが、いまでは赤羽どころか、東海道に出て、小田原まで出店している。当時話していたことの何百倍にも膨らんでいる。

神田氏はこう語る。

「あのとき、あの二人が辞めないで店に残ってくれたことが、いまの日高屋をつくりました。

ですから人ですよ。自分の脇を固めてくれる人がいないと。一人では絶対に事業を大きくすることはできません」

消滅することが必然の「駅前屋台」の代わりになる

「そこからは、店は自然にどんどんと増えていきました。当社のラーメンはまあ普通のラーメンですよ。でも、どこに出しても成功してしまう。不思議でしたね」

「ラーメン屋」から「ラーメン企業」に転換した経緯を語る神田氏(筆者撮影)
「ラーメン屋」から「ラーメン企業」に転換した経緯を語る神田氏(筆者撮影)

ただし、「私の戦略で当たったのは、この一点」と語る。それは、こういうことだ。

かつて、大宮、新宿、上野といった大きなターミナルには、駅を降りると屋台があった。それはラーメンとおでんの屋台。最終電車まで黒山の人だかりだった。

「だけど、私にはその屋台がなくなるということが予測できた。なぜかというと、屋台は道路を不法に占領しているのですね。警察はこれを絶対に許しませんね」

「もう一つ、屋台は衛生的にあまりよくないですね。これは保健所が許さないと思った。そこで、屋台は早晩消滅すると思っていた」

「では、屋台がなくなったら、終電まで飲食しているお客さんはどこに行くのだろうか。そこで、うちが屋台の代用になろうと思った」という。

「かっこいい言い方をすると、時代の流れをつかんだのですね」と神田氏。そこで、駅前出店を続けた。そして、みな繁盛店になった。

「だから日高屋は一杯飲んで食べる。そこでアルコール比率はいま17~18%になっている。居酒屋に近いラーメン屋なんです。これは屋台の延長という考え方なのですね」

これが、神田氏の「成功した戦略」である。

■連載第2回は、5月15日(水)11時25分に公開します。

フードサービスジャーナリスト

柴田書店『月刊食堂』、商業界『飲食店経営』とライバル誌それぞれの編集長を歴任。外食記者歴三十数年。フードサービス業の取材・執筆、講演、書籍編集などを行う。

千葉哲幸の最近の記事