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元阪神ドラフト1位・蕭一傑氏のセカンドキャリアは王柏融選手(日ハム)の通訳

土井麻由実フリーアナウンサー、フリーライター
台湾トライアウトを受けた西村投手をアテンドしたときの蕭一傑氏(写真提供:蕭一傑)

■“大王”こと王柏融選手の通訳に

2008年、阪神タイガースからドラフト1位で指名された蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
2008年、阪神タイガースからドラフト1位で指名された蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

 プロ野球選手のセカンドキャリアはさまざまだ。プロ野球界に残って指導者になる選手、母校などプロ以外で指導者になる選手、マスコミ業界で解説者や評論家になる選手、はたまた野球とはまったく離れて一般企業で働く選手、自営で店を構える選手…。

 そんな中、珍しい選手が現れた。2008年、阪神タイガースにドラフト1位で入団し、2012年まで在籍。2013年には福岡ソフトバンクホークスで育成選手として1年プレーした台湾出身の蕭一傑さんだ。

 

台湾でくつろぐ蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
台湾でくつろぐ蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

先日、台湾プロ野球(CPBL)のLamigoモンキーズから北海道日本ハムファイターズに入団した王柏融選手の通訳として契約したことが発表された。プロ野球選手から通訳になるというのはレアケースだ。

 「台湾ではあまり日本語を使ってなかったから、また勉強し直さないと(笑)」。蕭さんの口ぶりからは不安でもあり、また楽しみでもある様子が窺える。

義大ライノズ時代の蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
義大ライノズ時代の蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

 ホークスを退団後の2014年、台湾プロ野球のドラフト3位で義大ライノズ(2016年11月、買収により富邦ガーディアンズとなった)に入団した。「野球を続けたいと思ったし、まだまだできると思っていた。日本では不完全燃焼だったから。NPB(日本のプロ野球)復帰を目指そう、いい成績を残せば可能性はあると思った」。

 なにより両親は大喜びだった。「地元の高雄なんで、父母によく見てもらえた。日本でのプレーは、家族は見にくる機会がなかったんでね。本当に喜んでくれた」。

富邦ガーディアンズでの蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
富邦ガーディアンズでの蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

 しかし台湾プロ野球は厳しかった。「3チームとのバッターとの対戦だから、同じバッターとの対戦が多い。球質、軌道、変化球の種類…、相手も研究してくるし、積極的に振ってくるバッターが多いから、打ち合いになる」。完全なる打高投低で、投手陣の平均防御率は総じてよくない。

 日本でプレーしているときからコントロールには自信を持っていた蕭さん。「台湾ではきわどいコースに投げ分けることもあったけど、あえてストライクゾーンにどんどん投げて、相手が変化球と思っているところにスピードボールで勝負するというスタイルも見せたりしていた」。“ニュー蕭一傑”で5年間、戦った。

ホークスで1年、プレーした(写真提供:蕭一傑)
ホークスで1年、プレーした(写真提供:蕭一傑)

 昨シーズンが終了した11月、その話は舞い込んできた。ファイターズに入団が決まった王選手の通訳として来てほしいというオファーだ。しかし、その時点ではまだ現役でのプレーを希望していた蕭さんは、一旦は断った。

 ところがその後、戦力外通告を受けた。4チームしかプロ球団がない台湾では、NPBより厳しいようだ。「ちょっと1軍に上がってないと、すぐクビになる。去年は全然1軍に上がれなかったから」と悔しそうに話す。

奈良産業大学時代の蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
奈良産業大学時代の蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

 台湾に帰ったとき、NPB復帰を目指す一方で心に決めていたことがあった。「もう一回クビになったら引退しよう」と。

 「引退を決めて、気持ちが楽になったかもしれない」。肩の荷が下りたそのとき、通訳の仕事を引き受けることを決意した。といっても、そこから面接だ。まずは王選手、代理人との3人で「食事とお茶をして、話をしました」。次にファイターズのチーム統括本部副本部長兼国際グループ長である岩本賢一氏と面談して、採用が決定した。

 「通訳の経験はゼロってことは言った。でも王選手とは地元も一緒(屏東)。台湾のプロ野球選手はみんな知り合いなので、グラウンドで挨拶したりはしていた」。ふたりの相性も問題なさうだ。

■“お世話好き”を自任する

林威助先輩と(写真提供:蕭一傑)
林威助先輩と(写真提供:蕭一傑)

 そもそも引退後に通訳の仕事をしようと考えていたわけではなかった。それでも「常に向上心は持ち続けたい」と考えていたし、「なんでも受け入れよう」とも腹をくくっていた。そこに訪れた“縁”だ。

 実は台湾プロ野球の2球団からも通訳のオファーが来ていた。日本人のコーチが所属しているからだ。しかし「日本でやりたかった。自分にとってプラスになると思った」と蕭さん自身は日本行きを希望した。「やはり日本の野球も勉強できるからね。でもここ5年間は日本語をあまり話せてなかったから、より大変なほうを選択したことになる」と、自らにプレッシャーをかける。

 前向きな性格である。「NPBに選手として戻りたかったけど、違う形で復帰するというのもカッコいいなと思って(笑)。僕、人の世話をするのが好きなんで」。

台湾までトライアウトを受けにきた西村憲投手をアテンド(写真提供:蕭一傑)
台湾までトライアウトを受けにきた西村憲投手をアテンド(写真提供:蕭一傑)

 そうだ。人のために尽くす蕭さんの姿は、幾度も目にしてきた。タイガース時代、後輩に鄭凱文投手(現在は台湾・中信兄弟)がいた。秋季キャンプ中に契約更改をした鄭投手だが、その後の囲み取材ができない事態になった。鄭投手は日本語が話せなかったのだ。そのとき、後輩のために通訳を買って出てくれたのが蕭さんだった。

 鄭投手とともに早出でグラウンドに現れ、報道陣のために囲み取材の通訳をしてくれた。「初めてですよ」とは言ったが、あまりにスムーズで感心させられたものだ。そのころから通訳の素地はあったのだろう。

西村憲投手とはタイガースの同期入団(写真提供:蕭一傑)
西村憲投手とはタイガースの同期入団(写真提供:蕭一傑)

 また、西村憲投手(現在は社会人・エナジック)が台湾プロ野球のトライアウトを受けたときもだった。受験の手続きから空港への出迎え、当日の会場までの送り迎え、最後は夜市などの観光案内までアテンドした。

 同期のよしみとはいえ、ここまで面倒見のいい人はなかなかいないなと、感嘆したのを記憶している。

 「人の世話をするのが好き」と公言するくらいだから、通訳の仕事は合っているのかもしれない。「そうなんです。通訳って言葉を訳す仕事だけじゃなく、日本での生活面の面倒も見なくちゃいけない。そういうのは得意だから、何も心配していない」。むしろ歓迎しているようだ。

 さらにタイガース時代の先輩であり、もちろん台湾球界でも先輩にあたる林威助氏(現在は中信兄弟・2軍監督)からも「いい機会だし、いろんなことを含めて勉強してこいよ」と背中を押されたことも心強かった。

■日南学園→奈良産業大学→阪神タイガース→福岡ソフトバンクホークス

日南学園での蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
日南学園での蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

 蕭さんが日本の日南学園に留学してきたのは2002年だ。「当時の母校である高苑工商の理事会の方から日本行きの話があって…。こういうチャンスってなかなかないし、誰でも行けるわけじゃない。言語も一つ増えると思って、時間が経つごとに行きたい気持ちが高まって、自分の中では意志を固めました。親も後押ししてくれたので」。

 最初は当然ながら、日本語がまったくわからなかった。「文法が一番難しいとこですね」と苦労した。しかし「国語の先生に教えてもらったり、寮暮らしだったので、みんなとの会話で学びました」と若いからか、いや、蕭さん自身の語学のセンスだろう、ぐんぐん吸収していった。

タイガース時代の蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
タイガース時代の蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

 奈良産業大学を経て2008年ドラフトにて1位でタイガースに入団した。やはりそのプレッシャーたるや、相当なものだったと振り返る。「自分は気を遣うタイプなんで、周りの目が気になって。常に注目されていると思って、あれは慣れなかった…」。当人しかわからないつらさだったのだろう。

 蕭さんにとって一番の思い出は2010年、ウエスタン・リーグで優勝後のファーム選手権だという。「最終戦の中日戦で投げて勝って、ファーム選手権はその6日後だから投げろと言われて」。ファームとはいえ日本一を決める戦いだ。絶対に負けられない重圧の中、先発して八回途中までパーフェクトに抑えた。「1試合で決めるのは、緊張感が違った。負けたけど、いい思い出になった」。そして自信にもなった。

ホークス時代の蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
ホークス時代の蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

 2011年8月11日、1軍で初登板初先発した。5回1失点と好投したが味方の援護がなく、負け投手になった。「あれもいい経験になった。あれがスタートだったけど、長続きしなかった…」と懐かしそうに振り返る。

 また、フレッシュオールスターゲーム優秀選手賞を受賞したことやウエスタン・リーグで最多勝のタイトルを獲得したこと、台湾代表として広州アジア大会に出場して銀メダルに輝いたことも印象深い思い出だ。

 ホークスでの1年間は、移動のつらさが思い浮かぶ。「バスでの長時間移動。独立リーグとの試合で、高知まで片道8時間とか何度かあって。話に聞くマイナーリーグみたいな経験だった。2013年はすごく長く感じたなぁ」。そうとうきつかったようだ。

■ファイターズに感謝し、王選手のサポートに徹する

台湾での蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
台湾での蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

 台湾に帰った後の2017年オフ、6つ年下の女性と結婚をした。「結婚して気持ちが落ち着いた。奥さんはすごくプラス思考。僕はすぐ落ち込んじゃうけど、いつも励ましてくれる。戦力外になったときも『まだまだやれる仕事はたくさんあるよ』って言ってくれたことが、すごく励みになった。若いけど、考えが大人」と、常にその存在の大きさに助けられているという。

 6月には待望の赤ちゃんも生まれる予定だ。奥さんの体調なども考え、今回は単身赴任する。

いろいろなところを訪れるのが大好きだ(写真提供:蕭一傑)
いろいろなところを訪れるのが大好きだ(写真提供:蕭一傑)

 現在、新たな自身の仕事に向けて猛特訓中だ。5年間、ほとんど日本語を使っていなかったのだから。言語を覚えるにはドラマを見るのがもっともいいという。蕭さんも日本のドラマを熱心に視聴しているそうだ。さらには「ネット上のマンツーマンのtutor(チューター=家庭教師)で勉強しました」と、徹底したプロ意識の高さを感じさせる。

 それもこれも王選手に活躍してもらいたいという思いがあるからだ。自身のバックアップで野球に専念できるよう、“気遣い”の本領を発揮している。「でも…王選手がお立ち台に上がったら、テンパるかもしれないな。僕自身がお立ち台の経験がないんで。ちょっと心配になってきました…(笑)」。その機会が度々訪れることは間違いないだろう。

夢の国にも…(写真提供:蕭一傑)
夢の国にも…(写真提供:蕭一傑)

 5年ぶりの日本での生活もとても心待ちにしている。1月に来日したときは、「久々に『すき家』に行ったら、味が変わってなかった(笑)」と感激したとか。

 「3月のオープン戦でタイガースの方々と会うのも楽しみだし、あと高校や大学の友だちにも会いたい。あ、でも王選手のお世話が一番だから、会う時間がないかな」。思考の中心は常に王選手のようだ。

富邦ガーディアンズでの蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)
富邦ガーディアンズでの蕭一傑さん(写真提供:蕭一傑)

 ファイターズのイメージを「団結力がすごいチーム」と表現し、「ファイターズからこのようなご縁をいただいたことに感謝している」と精魂込めて尽力する構えだ。「王選手には本当に活躍してもらいたい。そのためには僕もサポートを一生懸命がんばらないと」。

 かつて明かしてくれた。蕭さんには夢がある。台湾と日本のそれぞれの野球界の架け橋になることだ。その第一歩を今、踏み出した。

 蕭一傑さんは明日、はじめて通訳としてアリゾナでキャンプインする。

フリーアナウンサー、フリーライター

CS放送「GAORA」「スカイA」の阪神タイガース野球中継番組「Tigersーai」で、ベンチリポーターとして携わったゲームは1000試合近く。2005年の阪神優勝時にはビールかけインタビューも!イベントやパーティーでのプロ野球選手、OBとのトークショーは数100本。サンケイスポーツで阪神タイガース関連のコラム「SMILE♡TIGERS」を連載中。かつては阪神タイガースの公式ホームページや公式携帯サイト、阪神電鉄の機関紙でも執筆。マイクでペンで、硬軟織り交ぜた熱い熱い情報を伝えています!!

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