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春画は、いつ頃から〈わいせつ〉になり、いつ頃から〈わいせつ〉でなくなったのか

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士
永青文庫で開催中の春画展と細川護煕理事長(写真:長田洋平/アフロ)

■はじめに

猥褻〉(わいせつ)という言葉がいつ頃できたのかはよく分かりませんが、明治の文筆家、宮武外骨(みやたけ・がいこつ)によれば、「猥褻」の「猥」は〈ホユル〉と読み、犬の鳴き声のことであって、犬が男女の野合の様子を見て吠えることから〈みだりがましい〉という意味が生じ、「褻」は、〈ケガラワシ〉と読み、「衣(ころも)を執(と)って性器をあらわにすること」の意味だということです。

平安時代頃から描かれていた春画ですが、公権力によって初めて禁止されたのが亨保7年(1722年)の町触(まちぶれ=町人に対して出された法令)であり、春画は風俗を乱すというのがその理由でした。

その後明治なって、春画は〈わいせつ〉だとされ、厳重な取り締まりの対象となっていくのですが、現在では、春画そのものは〈わいせつ〉との判断を受けているものではありません。もしも春画が〈わいせつ〉ならば、「春画展」が開催されている永青文庫理事長の細川護熙(もりひろ)元首相はすでに逮捕されているでしょうし、なによりも、警察関係者がはっきりと、「春画は国際的な評価も高く、文化的・芸術的価値がある。春画そのものを問題にする気は全くない」と断言しているからです(産経新聞10月19日)(ただし、警察は、春画の展示方法や取上げ方によっては、刑法175条の問題が生じる可能性はあるとしています)。

そこで、春画はいったいいつ頃から〈わいせつ〉とされ、また、いつ頃から〈わいせつ〉とされなくなったのかを調べてみました。

■春画はいつ頃から〈わいせつ〉とされたのか

春画が初めて公権力によって禁圧されたのは、上述のように亨保7年で、後の寛政、文化、天保の年代にも同じように禁止されます。しかし、このような禁止にもかかわらず、春画は、たとえば嫁入りの贈答品として扱われたり、新年のお祝い物として配られたりしており、庶民生活では必ずしも不快・嫌悪をもよおすようなものとして扱われていたわけではありませんでした。

ところが、明治になり、西洋文化の大きな波が押し寄せる中で、日本の伝統的な性風俗を卑しめる風潮が生じ、春画は「風俗を壊乱するもの」として、次第に強く排斥されていくようになります。

明治元年(1868年)になって作られた検閲制度は、事前に官の許可を得ずして行った出版は、吟味のうえ、版木・製本も没収し、著者・発行元・書店を処罰するというたいへん厳しいものでした(太政官布告)。そして、明治2年に、出版条例(その後、出版法に改正)が布告され、「淫蕩」(いんとう=みだらな享楽)を導くものの販売に罰金が科され、利益も没収されます。明治5年には、(東京)違式かい違条例(いしきかいいじょうれい)が布告され、その第9条で「春画及び其類の諸器物(どうぐ)を販売する」ことが規制されます。違式かい違条例とは、現在の軽犯罪法の元になった法令で、地方の実情に合わせてその後に全国で制定されていきます。また、明治6年には「淫風(いんぷう)を誘導すること」を罰する新聞紙条目(第13条)(その後、新聞紙法に改正)が制定されます。

検閲制度は、出版法(明治26年)や新聞紙法(明治42年)によって強化され、終戦後の1949年に廃止されるのですが、「安寧(あんねい)秩序を妨害し、又は風俗を壊乱(かいらん)する文書図画」の出版や新聞への掲載が禁止され、「5円以上50円以下の罰金」(出版法22条)や「6月以下の禁錮又は200円以下の罰金」(新聞紙法41条)が科されたのでした(ちなみに、明治24年に起こった大津事件の犯人津田三蔵巡査の月給が9円でした)。

刑法典における禁止規定としては、明治13年制定の旧刑法が、「風俗を害する罪」として第259条に「風俗ヲ害スル冊子図書その他猥褻の物品を公然陳列し又は販売したる者は4円以上40円以下の罰金に処す」との規定を置いており、〈猥褻〉という文字が国法に登場します。この規定が、明治40年の現行刑法典第175条猥褻な文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、500円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。」に引き継がれ、戦後に出版法や新聞紙法の廃止にともなって、刑法175条の法定刑に懲役刑が追加され、罰金の額も引き上げられました(なお、刑法175条についての直近の改正は2011年であり、内容がインターネットに対応したものとなりました)。

刑法典と春画の関係ですが、すでに旧刑法制定の頃には春画が〈わいせつ〉であることは当然のこととされ、自ら出版した者については出版法で処罰し、出版者以外の者については刑法を適用するというのが裁判所の考え方でした(大審院明治37年6月10日判決)。

以上のような春画に対する規制の裏には、西洋文化、とくに西洋美術の継受という現象があります。

歌麿名作中の名作といわれている作品(部分)
歌麿名作中の名作といわれている作品(部分)

それまで日本になかった〈美術〉という言葉が作られたのは明治6年のウィーン万博の時だとされています。ただ、その概念内容が定まらない中で、国の主導で美術工芸品の輸出に関する団体〈龍池会〉(後の日本美術協会)が組織され、そこで春画は美術の範疇から除外されていきます。これは、春画を美術から除外することによって、西洋絵画の主要なテーマのひとつである〈裸体〉から〈わいせつ〉の要素を取り除くことが目的でした。つまり、〈裸体画〉に芸術的価値を付与するために春画の〈わいせつ〉性が強調され、春画はいわば西洋美術を正常な規格とするための生贄(いけにえ)にされていったのではないかと思われるのです。春画は〈美〉の規格から外れる卑しいものとされ、結果的に膨大な数の春画がヨーロッパに流出しています。

このような事情を宮武外骨は、次のように述べています(意訳)。

猥褻の文書や図画の取締まりは、明治初年から20年頃までは比較的緩いものであったが、憲政実施の後は厳重なものとなり、明治30年以後はますます厳しいものとなった。自然主義(写実)の思想が入ってきてからは、政府の処置がいっそう過敏になり、取締まりが峻烈なものとなっていった。その結果、性に関する表現物は閉塞状態に至ってしまった。これは法的制裁の結果であるが、性表現物を歓迎する者が少なくなった結果でもある。

出典:宮武外骨『猥褻風俗史』(明治44年)

以上のように、国法上〈猥褻〉という文字が規定されたのは、明治13年の旧刑法が最初ではないかと思いますが、次第に春画と〈わいせつ〉が結合し、おおむね明治30年代頃には明確に春画を〈わいせつ〉とする認識が広まったのではないでしょうか。

■春画はいつ頃から〈わいせつ〉でなくなったのか

戦後になって、春画に関する研究書や復刻本は多数出版されていきましたが、いずれも刑法175条の存在を意識して、図版は性器部分等が修正され、書入や本文の一部も削除されるという状態でした。そんな中で、春画に関する著名な刑事裁判である〈艶本研究国貞事件〉が起こります。

林美一『艶本研究国貞』(1960)
林美一『艶本研究国貞』(1960)

これは、江戸文学の研究者である林美一が1960年(昭和35年)に出版した『艶本研究国貞』と題する研究書のわいせつ性が問題になった事件です。『艶本研究国貞』には並製本と特製本とがあり、それぞれわいせつな部分を伏字としていましたが、その部分を記載した「参考資料」を特製本の付録として限定的な読者にのみ販売したという事件でした。最高裁は、「文書の猥せつ性の有無は、その文書自体について客観的に判断すべきものであり、現実の購読層の状況あるいは著者や出版者としての著述、出版意図など当該文書外に存する事実関係は、文書の猥せつ性の判断の基準外に置かれるべきものである」(最高裁昭和48年4月12日判決)として、有罪としました。

裁判は、確定するまでに13年間もかかりましたが、その間も林は精力的に研究書、雑誌の出版を続けます。そして、一般誌もしだいに春画を正面から取り上げるようになり、昭和から平成にかけての頃には、専門の美術雑誌が堂々と春画の特集を組み、図版に施される修正も軽いものになっていきました。

林はその後、『艶本研究国貞』の改訂新装版を出版します。そこで使用されている図版は全て無修正で、本文の翻刻にも一切の削除箇所がなされませんでした。さらにその後、大手の出版社が『浮世絵秘蔵名品集』(無修正完全復刻画集)を出版し、摘発がなされなかったことから、これ以降、春画の出版に修正が加えられることはなくなりました。今では、少なくとも出版においては春画に対する規制はほとんどなくなったといえるでしょう。

こうして、現在では春画それじたいは〈わいせつ〉ではなくなったと言えるのですが、上述したように、警察は、春画の展示方法や取上げ方によっては、刑法175条の問題が生じる可能性はあるとしていますので、この点の注意は必要だと思います。(了)

【参考】

【なお、次の拙稿も合わせてお読みいただけると幸いです。】

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【追記】

18歳未満の入場制限など、いわゆる「ゾーニング」を行えば、〈わいせつ図画〉であっても〈公然性〉が欠けるので刑法175条には該当しないといった誤った理解があるようなので、一言付言します。

画像

〈公然〉とは、判例によれば、「不特定または多数」の者が観覧できる状態のことをいいます。右の図でいえば、〈b+c+d〉の領域です。つまり、〈特定かつ多数〉の状態(c)も〈公然〉だということになります。判例では、希望した数人に対してわいせつな映画を見せたという事案で〈公然性〉を肯定し、刑法175条の成立を認めたものがあります。

甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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