性表現について不快感を示す人びとの存在 ー春画展に寄せてー
■はじめに
最近、永青文庫で開催されている「春画展」 を観る機会がありました。
春画は、海外で絶賛され、印象派の画家たちにも大きな影響を与えたといわれている日本芸術文化の一分野です。2013年大英博物館で開催された同じ春画の展覧会でも、その色合いや構図の見事さに高い評価が下されたのでした。
永青文庫の会場に行って驚いたのは、場内を埋め尽くす来場者の多さでしたが、それのみならず、私の印象ではその4割ほどが20代から30代の若い女性であったことでした。展示されている春画は、どれも人間の自然な営みである「性」を直接の主題とするものであって、男女の性器やその交合部分がデフォルメされ、あるいは写実的・直接的に表現されたものばかりです。おそらく以前ならば、このように〈性を直接表現したもの〉の多くは刑法175条(わいせつ図画公然陳列罪)に該当するという評価に社会は納得したのではないでしょうか。展示されているのは、そのような絵ばかりです。もちろん現在でも、春画について心理的に強い抵抗を示す人びとがいることは容易に想像できます。たとえば、「春画展」を紹介する記事で、歌麿や国貞、北斎の写真をカラーで掲載した週刊文春の編集長が読者の信頼を裏切ったとして〈3カ月休養〉することになり、同社は、「読者の視線に立って」今後の編集を見直すとコメントしています。
■性の直接的表現とわいせつ性
かつて最高裁は、翻訳小説『チャタレイ夫人の恋人』における性描写がわいせつかかどうかが争われた事件で、〈性行為非公然の原則〉に言及して、性の直接的表現のわいせつ性を説明したことがあります(本書は、現在では完全復刻版が出版されています)。
つまり、最高裁は、性の直接的表現が「最小限度の道徳」として普遍的に存在する〈性行為非公然の原則〉に反するがゆえに、刑罰によって禁圧すべきであるとしたのでした。そして、強調に強弱はあるものの、その後の最高裁判例では、この〈性行為非公然の原則〉がわいせつ概念の中核におかれているのです。
■わいせつ処罰は社会の良識、でも、それはどこに存在するのか?
最高裁は、わいせつ性の判断基準は「一般社会において行われている良識」であるとしています。それは、個人の認識やその総和ではなく、個々人の集合を超えた「集団意識」だといいます。最高裁は、もちろん、個人がそのような判断に反する意識をもつことはあるし、社会の変化にしたがって性に関する「社会通念」がつねに同じであることはないということも認めてはいます。しかし、ギリギリの最後の「超ゆべからざる限界」としての規範が存在し、それが〈性行為非公然の原則〉なのだといいます。
そして、重要なのは、これが事実認定の問題ではなく、あくまでも法的価値判断だとしている点です。裁判所としては、性器や性行為が直接的に表現されているという事実認定さえ行えばよいのであって、それが性欲を刺激するかとか、見る者に性的興奮を与えているかなどを証拠によって判断することは不要であるとしたのです。つまり、極論すれば、上の判例は、問題の作品を裁判官が見て、〈裁判官が、《良識》にしたがって、わいせつだと思えばわいせつなのだ〉という主張と同じことなのです。しかし、民主国家においてもっとも重要なことは、国家の下した決定について、どのような判断プロセスからそのように判断したのかを明らかにするために、国民の事後的検証可能性を残しておくことではないでしょうか。その意味から、このような判断構造は本質的に間違っていると言わざるをえません。
■露骨な性表現に不快感を示す人びとについて
しかし、ひるがえって考えれば、人の性欲を刺激し、興奮させることのどこが、また、なぜ問題なのででしょうか。
露骨な性表現が多くの人びとに不快感を与え、見たくもない人が性器の描写を見せられたりすることは、その人の感情や自尊心を傷つけることは間違いありません。しかし、裁判所は、そのような個人の感情的被害を刑法175条で問題にしているのではありません(そうならば、見たい人に見せるのは構わないということになります)。およそこの日本の社会において、性器や性行為の露骨で直接的な表現物が流通しているということを問題としているのです。つまり、そのようなものがこの社会に存在していることじたいについて、不快感や嫌悪感をもつ人びとの仮想的な感情を問題にしているのです。
そのような感情的反応は、たとえば動物虐待が行われているとのニュースに接したときに人びとが抱く不快感や嫌悪感などの感情に似ています。動物愛護法は、「国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資する」(第1条)ことなどを目的として制定された法律であり、「愛護動物」の虐待行為を処罰しています(第44条)。動物虐待行為に対して社会一般の人びとが抱く不快感や嫌悪感はまったく不当なものではなく、そのような行為を禁止することによって、生命尊重や友愛などの情操を深めることができるとすることは何ら不合理なことではありません。しかし、動物虐待行為を直接具体的に表現した表現物については、都道府県の青少年健全育成条例などで未成年への販売等が規制されている場合のほか、刑法的には何ら禁止されていません。性についても、売買春などのような反社会的な性行為がこの社会で行われているということについて、人びとが抱く不快感や嫌悪感には合理性のあることだと思われますが、他方で、男女の性交以外の性的行為については、〈商品としての性〉に不快感をもつ人は多いにもかかわらず、一定の条件の下で〈性風俗特殊営業〉として合法化されているのです。
このような現状から考えると、たとえ性器や性行為を直接表現してものであっても、それについての不快感や嫌悪感を抱く人びとの感情を優先して、刑罰によって性表現を禁圧することは合理性のあることだとは思われません。性的サービスを受けたい人に一定の性的サービスを提供することを不快に思う人がいても、合法的な営業行為として認められているのです。ここで、「性風俗特殊営業」も「善良なる性風俗」であるということは、ブラック・ジョーク以外のなにものでもありません。性器や性行為の直接的表現物についても、それを見たいと思う人びとに提供することに不快感や嫌悪感を覚える人びとが社会に存在するとしても、そのような感情を刑罰によって特別に保護すべきであるとすることは、合理的に説明できないと思われるのです。
■性に関する情報環境は劇的に変化している
インターネットの普及によって、日本で明らかに違法とされるような海外から流れてくる性情報が、事実上の「自由」を享受しています。これを取り締まることは不可能です。他方、過激な性的表現物は「有害図書規制」(青少年の健全育成のために、性的に著しく過激な図書やDVDなどを店舗で〈区分陳列〉したりすることによって、彼らがそのような情報に接することを防ぐ制度=ゾーニング)がほとんどの地域で機能しています。情報環境が劇的に変化している原状をふまえ、旧来通りのわいせつ概念を維持し適用することについて、再検討すべき時期に来ているように思います。
なお、「作品の芸術性が高ければ、わいせつ性が薄まる」といった議論があります。確かに、判例の中にもそのような考えが見られます。しかし、このような考え方は、裁判官(国家)が当該作品の芸術性を判定することになり、好ましくないのではないかと思っています。(了)