文化的価値があるかどうかは〈警察〉が判断しますー春画とわいせつー
■はじめに
春画は、直接的な性表現がなされていることから、刑法175条に該当する「わいせつ図画」であるとされたこともありました(最高裁昭和48年4月12日判決〈国貞事件〉)。しかし、永青文庫で開催されている「春画展」が大好評であることもあって、マスコミで「春画特集」が取り上げられる機会が多くなっています。
そんな中、春画を掲載した週刊誌が警察から「指導」を受けるということがありました。
警視庁が、8~9月に口頭指導を行ったのは、「週刊ポスト」(小学館)、「週刊現代」(講談社)、「週刊大衆」(双葉社)、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)の4誌ですが、捜査関係者は、この「指導」について次のように述べています。
■文化的価値があるかどうかは〈警察〉が判断する
文化的価値、すなわち作品の芸術性とわいせつ性の関係が最高裁で最初に問題になったのは、翻訳小説のわいせつ性が争われた〈チャタレー事件〉です。最高裁は、芸術性とわいせつ性は次元の異なる問題だから、芸術作品であってもわいせつだと判断してもよいとして、有罪にしました(最高裁昭和32年3月13日判決)。いかに文学的価値が高いものであっても、裁判所がわいせつだと判断することは構わないのだという趣旨です。
その後もこの方針は維持されますが、〈悪徳の栄え事件〉では、最高裁は、高い芸術性によってわいせつ性が薄まる(昇華される)ことはあるということを認めています(最高裁昭和44年10月15日判決)。ただし、この作品はわいせつだとしています。
作品の中にわいせつな箇所が少しでもあると、作品全体がわいせつだと判断されてしまうということはいかにも不合理ですから、芸術性の高さをわいせつ性の判断において考慮すべきであるという考えは妥当なように思えます。しかし、問題は、それを誰が判断するのかということです。最終的には裁判官の判断ですが、事件化するかどうかは警察官の判断であり、警察官が、当該作品が芸術かどうか、文化的価値があるかどうかを判定することになります。しかし、これは戦前の〈検閲制度〉につながるおそれのある発想であり、やはり問題ではないかと思います。
明治の初年から終戦まで、出版物はすべて事前に内務省(地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政を担った中央官庁)に納本し、〈検閲〉を受けることになっていました。そして、政府にとって都合の悪い出版物は、削除や発売禁止の処分(発禁処分)を受けていたのです。言論や思想だけではなく、公序良俗を乱すものも対象とされ、春画の売買も禁止されました。日本の近代化という命題のもと、西洋文化を意識して日本国内の風俗の矯正が行われ、「性は恥ずかしいもの」という考えが広まっていったと思われるのです。この頃、人力車夫の裸さえも禁止されました。
今回の雑誌社に対する「指導」は、もちろん〈検閲〉ではありません(憲法21条2項で検閲は禁止されています)。しかし、継続して毎週定期的に出版される週刊誌ですから、このような警察の「指導」が将来の編集方針に何らかの影響を与えるおそれはないのかということを一読者としては心配するしだいです。
とくに、警察が文化的価値がないと認めれば、犯罪だと判断することもある、という点には、何か不気味なものすら感じるのです。
■掲載方法によって、春画はわいせつになる
次に、今回の警察の「指導」で注目すべきは、「ヌード写真などもある誌上での掲載であり、(春画の)わいせつ性が強調されていると判断した」としている点です。
このような考え方は、「相対的わいせつ概念」と呼ばれています。これは、当該作品の販売や広告方法、具体的な掲載方法、対象読者層など、作品が置かれている文脈が作品のわいせつ性に影響を与えるとする考え方です。
これも、一見、妥当なように見えますが、特定の人に対してだけ性的刺激・興奮を与えるようなものが逆に犯罪性を帯びる可能性があり、わいせつ概念が拡大的に適用されるおそれがあります。たとえば、成人には問題のないアダルトビデオであっても、未成年にとって性的刺激が強ければわいせつだと判断される可能性があります。ミロのビーナスも、それを見て欲情する人に見せれば、わいせつ物だとされてしまいます。わいせつは時代によって変わりますが(判例もそれは認めています)、それは一般の社会意識の変化が問題になっているのであって、読者に対する性的刺激度や印象によってわいせつを判断するという方法は、処罰の拡大につながる可能性があるのです。
今回の警察の「指導」についても、以前から芸術雑誌には無修正の春画が掲載されており、それについて「指導」があったということは聞いていませんが、週刊誌への掲載はダメというのはどうなんでしょうか?(了)