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【深掘り「鎌倉殿の13人」】存在感が薄かった北条義時は、いかにして台頭したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条義時を演じる小栗旬さん。(写真:つのだよしお/アフロ)

 7月10日(日)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、参議院選挙によって中止になった。せっかくなのでドラマの前半を振り返ることとし、北条義時について考えることにしよう。

■北条義時の登場

 長寛元年(1163)、北条義時は時政の次男として誕生した。政子は姉である。長男は宗時だったが、治承4年(1180)に頼朝が挙兵した際、石橋山の戦いで戦死した。

 石橋山での敗戦後、義時は時政とともに甲斐へと向かい、武田義信ら甲斐源氏を味方に引き入れた。同年の富士川の戦いで、頼朝は平家の軍勢を見事に打ち破った。時政・義時父子の貢献は、大きかったといえよう。

 以後、義時は頼朝に重用され、養和元年(1181)に頼朝の寝所を警護する役に選抜された。いかに、頼朝が義時を信頼していたかがわかるだろう。義時は平家追討、奥州征伐にも出陣したが、まだ影は薄かった。

 建久元年(1190)に頼朝が上洛した際、義時も付き従った。頼朝死後の正治元年(1199)には、頼朝の子・頼家(2代将軍)を支える「13人の御家人」の1人になったのだ。以後、義時の運命は開けていった。

■頼朝死後の義時

 大河ドラマのタイトルの一部でもある「13人の御家人」とは、大江広元、三善康信、中原親義、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛、比企能員、梶原景時、八田知家、安達盛長、足立遠元、二階堂行政の幕府を支えた面々である。

 その後、義時はライバルとなる有力な御家人を退けるなどし、幕府内に大きな存在感を示した。しかし、やがて政治路線をめぐって、父の時政との関係が悪化していった。時政は、ついに娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策する。

 元久2年(1205)、義時は畠山重忠を追討した際、姉政子の協力を得て、時政、その妻牧の方、平賀朝雅を退けることに成功した。これにより、時政は引退を余儀なくされ、義時の存在感が強く増したのである。

 承久元年(1219)1月、3代将軍の実朝が甥の公暁によって暗殺された。源氏の正統は絶えたものの、これにより義時は幕府における地位を確固たるものにしたのである。実朝の後継者には、京都から九条道家の三男・三寅(藤原頼経)を迎えた。

 承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇らが倒幕の兵を挙げた。この動きに対して、義時はただちに朝廷との戦いを決意し、兵を京都に送り込んだ。その結果、朝廷は降伏し、後鳥羽上皇らは流罪となったのである。こうして幕府は、東国の御家人を没収した所領3000余か所の地頭とした。

 以上のように、義時は鎌倉幕府成立の立役者であり、同時にその発展に貢献した人物である。

■まとめ

 少しばかり話を先取りしてしまったが、義時は頼朝の信頼の厚い人物だった。やがて、義時は姉の政子と結託し、父の時政を追放するなどし、幕府の骨格を作った。その点については、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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