坂本冬美インタビュー~「演歌歌手・坂本冬美」から伸びた「ロック」という枝葉との31年目
1987年のデビュー以来、「NHK紅白歌合戦」に28回出場するなど、30年以上にわたって演歌歌手として不動の地位を築いている坂本冬美。しかし、彼女のキャリアが常に順風満帆だったわけではなく、また「演歌歌手」の一言でまとめられる活動だけでもなかったことは周知の事実だ。30年の中では病気で活動休止を余儀なくされた時期もあった。そして、2009年には「また君に恋してる/アジアの海賊」が演歌という枠を超えた大ヒットを記録している。
坂本冬美は、ジャズ、ロック、そしてポルトガルのファドなどで演歌の名曲群を彩ったカヴァー・アルバム「ENKA II ~哀歌~」を2017年10月25日にリリースした。そこで今回は、演歌を主軸にしながらも、細野晴臣や忌野清志郎とHISを結成するなど、積極的にロックなどの他のジャンルにも挑戦してきた側面について話を聞いた。
いかにして坂本冬美は30年の活動の中で苦難や試練を乗り越えてきたのか。演歌にとどまることなく変化に対応し続けてきたからこそ、坂本冬美は現在も私たちに歌を届けてくれるのだ。
試行錯誤のシャンソン・メドレー
――先日、Billboard Live TOKYOでのスペシャル・ライヴ(2017年10月2日)を拝見したのですが、シャンソン・メドレーに初挑戦されていましたね。なぜ今シャンソンにチャレンジしたのでしょうか?
BS-TBSの番組の収録もあって、番組プロデューサーにいろんなことをやってほしいと言われたんです。オリジナル曲や歌謡浪曲も歌ってほしいし、「また君に恋してる」もアレンジを変えて歌ってほしいと言われて、さらに初挑戦のシャンソンも歌ってほしいと言われたんです。「1曲なら何とか頑張ろう」と思っていたらメドレーで来ちゃって(笑)。
――シャンソンを歌われていかがでしたか?
難しいですね、本当に難しいです。
――坂本冬美さんがそう感じているとも思わずに、私は「巧いな」と聴きほれていました。
シャンソンは越路吹雪さんの歌詞で歌ったんです。越路さんの歌なんですけど、越路さん風になっちゃいけないし、でも越路さんの歌だけを聴いていると歌い方も意識してしまうので、自分の歌に切り替えたときに正しいか判断できないじゃないですか? シャンソンを間違って解釈しているかもしれないし、どこまで崩していいのかわからないところもあったんですね。でも、ほかの方の歌を聴いたら、「それぞれ違うんだ? ああ、自由でいいんだ」と気づいたんです。演奏もついてきてくれるというので、何回か歌って録音しては聴いて、「崩しすぎだ」「急ぎすぎだ」と反省したり、「こうしてみよう」と考えたり、試行錯誤をしてなんとか当日を迎えたんです。
――その試行錯誤をライヴではまったく感じさせませんでしたね。
あとは、「とにかく語りなさい」と言われていたんですが、いざ歌うときにはメロディーもついてるし、フレーズに入れないといけないし、しかも崩さなきゃいけない。「メロディーを歌いながら語るって難しいな」って(笑)。
――「メロディーを歌いながら語る」というのは、具体的にはどういうことでしょうか?
(エディット・ピアフの『愛の讃歌』の一節を歌って)ちょっとタメて歌っているんですけど、ちゃんとフレーズの中には入っているんです。そこがずれていくとバックの演奏と合わなくなるので、「ただタメればいい、崩せばいい」というんじゃない難しさを今回初めて感じたわけですよ。ずれすぎてもいけないけど、その中で飾っていかなきゃいけない。語っていくスタイルは新しかったですね。なるべく心の中で独り言のように語ってみたり、すぐそばにいる人に語りかけるようにしてみました。
――そういう苦労をまったく感じさせなかったですね。お話をうかがっていて驚きました。
あれでもいろいろ計算して歌ったんです(笑)。始まれば歌詞を噛み砕いて、その感情をどう表現しようかと考えますけど。そこに至るまでに計算したり、「ああしよう、こうしよう」と考えたりはありましたね。
忌野清志郎との出会いとHIS
――梅干し会社でのお勤めを辞めて、演歌歌手を目指して猪俣公章さんの内弟子をされていた19歳の頃は、現在のことを想像できたでしょうか?
まったくつかない! ド演歌でデビューしたくはなかったんです。今は格好いいデビュー曲をいただけたと思っていますけど、石川さゆりさんに憧れて歌手になったので、さゆりさんのようなしっとりとした女唄を歌いたかったんです。でも、その当時の私は今より10キロぐらい太っていて、女唄というイメージじゃなくて「ドンといけ!」と(笑)。ぴったりでした(笑)。そのときの風貌もあるでしょうし、若さやパンチ力もあったので、デビュー曲は男唄の「あばれ太鼓」になったんでしょうね。
――1991年の「火の国の女」など、女唄も歌うようになったきっかけはなんだったのでしょうか?
5年目ですね。しかも3年目には「火の国の女」はできていたんです。でも、猪俣先生のご判断で「まだ早い」と。男唄は人生経験がなくても若さとパンチ力で歌えるけど、女唄って人生経験を積んだほうがいいに決まっているので、そういうご判断だったんでしょうね。
――一方では、1988年にRCサクセションの「COVERS」の「シークレット・エージェントマン」に参加されています。そもそも忌野清志郎さんとの出会いはどんなものだったのでしょうか?
デビュー2年目ですね。東芝EMIの1階のロビーで、評論家の先生方に、新人として初めて聴いていただく場を作っていただいて、和服を着て「あばれ太鼓」を披露していました。そこに吹き抜けの中二階があって、取材スペースだったんです。越路さんの大きな写真があってね。そこで清志郎さんが「何が始まったんだ?」としばらく私の歌を聴いてくださったんです。後日談ですけど、清志郎さんが取材のときに気になるアーティストに「フユミ・サカモト」と言ってくださるようになったと聞いて。その1年後に「COVERS」に参加してくださいと言われました。
――「シークレット・エージェントマン」のレコーディングのときは、どのような感覚だったでしょうか?
よくわからないけど、いけない歌ですよね......?(笑) でも、私も2年目ですし、うちのスタッフにも「すごいことなんだよ」と言われて。私は清志郎さんというと、「い・け・な・いルージュマジック」で坂本龍一さんとチューしているのを学生時代にテレビで見ていて、過激な人だと思っていたから、「あの方が私!? なんで!?」と思いましたけど、「とにかくすごいことなんだから」と言われて参加しました。お会いしたらメイクもしてないし、照れ屋さんで、目があったら逸らしてしまうような、全然イメージが違う清志郎さんで。どうしたらいいのかわからない私に「あ、ちょっとうなってくれますか?『シークレット・エージェントマン』って」と言われて、私が「シークレット・エージェントマン」と歌ったら「すごい、最高」って言われて。自分の演歌を歌うときよりもコブシやうなりを強調して歌って、「最高」と言われて終わりました(笑)。
――1990年の「ロックが生まれた日1990」での忌野清志郎さん、三宅伸治さんとのSIMを経て、1991年には忌野清志郎さん、細野晴臣さんとHISを結成されます。
まず東芝EMIのイベントがあると言われて、野音(日比谷公園大音楽堂)も知らなかったけれど、「清志郎さんが一緒にやりたいと言ってくれてる、すごいことだから参加しなさい」と言われて。清志郎さんが学生服を着るから、私はセーラー服を着てほしいということになって(笑)。デビューして4年目で、やっと和服で歌う演歌のスタイルがなんとなく自分もしっくりした頃にセーラー服ですかと(笑)。でも、逆にセーラー服だから開き直って恥ずかしがらずにできたのかなと思っています。丸いメガネをかけて三つ編みにしてダサい格好で歌って、それなりに受けて、清志郎さんもご機嫌で。それからしばらく経って細野さんが「実は坂本冬美さんとやりたいんだよ」と言ってくださったみたいで、そこでSIMがHISに変わりました。清志郎さんと細野さんは、学園祭とか学生のノリで曲作りをしてらしたみたいなんですね。夜にお菓子を食べながらおやりになっていたみたいで。
――HISについてはどう説明されていたのでしょうか?
そんなに説明されてなくて。清志郎さんに「冬美ちゃん、詞を書かない?」と聞かれたけれど、「私は書けないですよ」と言ったら、「じゃあなんかエピソードとかない?」って聞かれて初恋の話をFAXでして。詞らしきものも送りあっているうちにできたのが「夜空の誓い」や「恋人はいない」なんです。
――細野晴臣さんは「omni Sight Seeing」(1989年)をリリースした後で、コブシに興味を持っていた時代ですね。
ワールドミュージックとかやってらっしゃいましたよね。
――そういう説明も特になく?
「『ロックが生まれた日』でやったようなこと」と言われていて、「また学生服を着るんですか?」みたいな(笑)。歌については「コブシを強調してください」ということでした。
――2005年には「Oh, My Love〜ラジオから愛の歌〜」(坂本冬美の単独名義)をリリースし、2006年のライヴやテレビ出演までHISは実質的に続きましたが、HISでの坂本冬美さんの立ち位置はどんなものだったのでしょうか?
もう学生のノリで。アメリカの3人組がいるじゃないですか、誰だっけ......?
――ピーター・ポール&マリー?
それ!
――だいぶ変わったピーター・ポール&マリーですね(笑)。
そんなことをおっしゃっていましたね。そこにさらに学園祭的なものが根底にあるんだと思いますね。言われたのは「コブシを回してください」「うなってください」、このふたつだけ。あとはないです。ライヴは、清志郎さんが亡くなる前の「ナニワ・サリバン・ショー」が最初で最後です。
――2016年にはHISの「日本の人」がSHM-CDとアナログレコードで再発されました。こうした再評価をどう感じられますか?
ちょうど私も30周年でしたね。リアルタイムで聴いていた方は、演歌に興味がなかったけれどHISで私を知ってくださった方が多かったんです。あれから20年以上経って、若者の中には清志郎さんを知らない人もいるわけじゃないですか? 今、初めて清志郎さんの歌を聴く方もいると思うんです。清志郎さんからHISに流れ着いてくれると嬉しいなと思います。正直言って、恥ずかしくてしょうがないんですよ、若いから。でも、こんな貴重なアルバムは私のこれからの人生でもないでしょうし、宝物ですよね。再発してくださったのはとても嬉しいことですね。
――坂本冬美さんにとっては、HISは演歌とロックを行き来するきっかけになったでしょうか?
ロックと演歌って正反対の場所にいるようですけど、何か近いものがあるんですよね。
――それはなんでしょうね?
わからないです。でも、合うんですよね。真逆にいそうなんですけれど。清志郎さんも個性的な声をしてらっしゃるし、私も変わった声なので、清志郎さんご自身がそういう個性的な声や変わった声がお好きだったのかなと「ナニワ・サリバン・ショー」で見ていても思いました。清志郎さんも一癖ある、私も一癖ある、そして細野さんも一癖ある(笑)。一癖、二癖、三癖が、合わなさそうで不思議とうまく合ったんでしょうね。絶妙なバランスだったんじゃないかな。
――ロック・ミュージシャンと関わることで刺激や影響を受けた面はあるでしょうか?
当時は清志郎さんの存在が大きかったですが、柳ジョージさんとライヴ(1993年)をさせていただいたり、中村あゆみさんに曲(『アジアの海賊』)をいただいたりとか、それもこれも清志郎さんとの出会いがあったからだと思いますね。
ふたりの師匠~猪俣公章との別れと二葉百合子との出会い
――1994年の「夜桜お七」は、1993年に猪俣公章さんが亡くなってからの最初のシングルでした。師匠を失っての歌手活動は大きな試練だったのではないでしょうか?
まさにその通りで、猪俣先生が亡くなった後、スタッフ一同で「何をすればいいんだ」と考えた後、通常の演歌だとどうしても猪俣先生と比べてしまうので、思いきって林あまりさんというまったく違う世界の方に作詞をお願いして、「アンパンマンのマーチ」からミュージカルまで手がけていらっしゃる三木たかし先生に作曲をお願いしました。
――「夜桜お七」は、緊張感に満ちたイントロから始まって、坂本冬美さんが演じるかのように歌うのが素晴らしいですね。
三木たかし先生が「前半のスローな部分は満開の桜が咲き誇っている静かなイメージで、そこに月が浮かんでいる何か怪しい雰囲気をイメージして。リズムが変わったら、桜が舞い散るところをイメージして気持ちを切り替えて」とおっしゃってくださって歌えたんです。
――1996年の「蛍の提灯」は宇崎竜童さん作曲のレゲエで、大胆な挑戦だったと感じます。
難しかったです、しゃべりながら歌わなきゃいけなかったので。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」と同じで、しゃべって歌って、しかもそれがレゲエのリズムなので。とても難しかったですね。
――音源を聴いてもそうは感じさせないですよね。
いやいやいや! これも必死にレコーディングをして。竜童さんに「真面目すぎる、崩して」と言われても、不良じゃなかったから難しかったんです(笑)。レコーディングでリズムに乗りすぎていて、つまらなかったと思うんです。でも「また君に恋してる」の後に竜童さんにお会いする機会があって「なんか色っぽくなったね、いい歌を歌ってるね」とほめていただいて、すごく嬉しかったんです。「蛍の提灯」のときは若くて歌いこなせてなかったんだなと、改めて感じましたね。本当に艶っぽい歌だと思いますので、今歌ってもぴったりですよね。
――2002年にはご病気で歌手活動を休止されます。復活までは、二葉百合子さんのご指導を受けたとのことですが、二葉百合子さんの「岸壁の母」のどのようなところに感銘を受けられたのでしょうか?
休んでいるときは歌にも自信をなくしていて。精神的に落ちこんでるときに、たまたま二葉先生の歌を聴いたんです。そのときに二葉先生は60周年で。子どもの頃から何度も「岸壁の母」は聴いていて、舞台の袖で聴かせていただいたこともある歌だったんですが、その60年というキャリアでも突き刺さるようなお声なんですよ。60年経ったら普通疲れてますよね?(笑) でも、突き刺さってくる歌声に引きこまれてしまうような、力強い歌声だったんですよね。説得力も含めて。自分も一から力強い喉を作って、力強い歌を歌いたいと思ったんですよね。歌謡浪曲は詳しくはなかったんですが、先生のもとで一から発声を勉強したいとお手紙を書いて、「いらっしゃい」と言っていただいて、弟子入りをさせていただきました。
――二葉百合子さんからの教えで大きかったものはなんでしょうか?
いろんなことを教えていただいたんですが、「1曲歌うのも20曲歌うのも同じ気持ち、ステージに立つには1曲も20曲も同じなのよ」ということですね。あと、先生流に言うと「かじっちゃいけない」。「よーし聴かせてやろう!」とオーバーにコブシを回して、「どうだ聴け!」っていう歌い方をしてはいけないと。それは「スマートに歌いなさい」ということだと思うんですよ、持てる力を出しきって。「聴かせてやろう、どうだうまいだろう!」なんて歌は、聴いていて絶対いい歌に聴こえないとおっしゃっていました。誠心誠意、心をこめて歌いなさいということだと思いますね。手を抜いちゃいけないと。
CDが売れない時代に「また君に恋してる」が大ヒットした理由
――坂本冬美さんは2009年の「また君に恋してる / アジアの海賊」で演歌の枠にとどまらない大ヒットを飛ばしました。いわゆる演歌ではない楽曲でも人々を魅了できたのはなぜだと思われますか?
若い方がダウンロードして着うたで聴いてくださって。私の中でイメージしていたのは、長年連れ添ったご夫婦だったり、籍は入れてなくても恋人同士だったりで、そこには長い年月があるというイメージだったんです。でも、若い方が付き合って半年しか経っていなくても、そこにもドラマっていっぱいあるわけじゃないですか? 「なるほど!」と思いましたね。ただ長ければいいんじゃなくて、その短い期間にもふたりの仲には嬉しいこともあれば喧嘩もあると、若い方の反応で知ることができたんですよね。「なるほどなぁ」って。この歌がそうやって広がっていって、心に届く詞や曲を先生方が作り、歌い手が代弁して心に届く歌を歌えばヒットするんだ、ちゃんと受けとめてくれるんだとわかったのが何よりの収穫でしたね。
――それは猪俣公章さん、二葉百合子さんの教えの通りでしたか?
もちろんです。それに「CDが売れない」とか「ヒット曲が出ない」と言われていた時代のヒット曲だったわけじゃないですか。もちろんCDの売り上げよりも配信のほうが大きかったですよ。でも、何より心に届くというのが大事じゃないですか。「今はCDが売れない時代だからカラオケで歌ってもらえる曲を作ってればいいや」ということではないんです。もしかしたら歌ってもらえないかもしれないけれど、一生懸命心を届けようとする気持ちを忘れずに、素晴らしい詞や曲を作れば届くんだってことを、レコード会社の人たちも再確認できたと思うんです。「演歌世代のヒット曲はあるかもしれないけれど、広い世代に受け入れられる曲はもう無理だろう」という時代にヒットしたのが大きかったと思います。それを歌わせていただいたのがたまたま私でした。私は天から授かった宝物だと思っています。
――「また君に恋してる」のオリジナルはビリーバンバンですが、坂本冬美さんの歌声を通すことで大ヒットしたのはなぜだと思われますか?
あの曲が私のところに降りてきてくれたんだと思いますね。二葉先生の「岸壁の母」も実はカヴァー曲なんですよ(オリジナルは菊池章子)。二葉先生もカヴァー曲で大ヒットしてるんですよね。だから、その曲との相性なのかはわかりませんが、本当に「降りてきてくれたんだ」と感じますね。
――カヴァーすることに意味があるんでしょうかね?
どうなんでしょうねぇ。でも、たくさんの歌手の方が数々の名曲をカヴァーし続けて残ってきたわけで、「また君に恋してる」もカヴァーされる時代が来るかもしれないし、「夜桜お七」を歌ってくれる方が現れるかもしれない。こうやってつながって名曲は残っていくんでしょうし、私がたまたま「また君に恋してる」に出会えたことは、本当に大きなターニングポイントになりました。
――「また君に恋してる」では、演歌の歌い方とどのように変えましたか?
コマーシャルソング(三和酒類『いいちこ日田全麹』のCMソング)ということで、どこが流れるのかを意識して歌っています。地声で歌うのか、軽くファルセットで抜くのかもディレクターと相談して歌って。そして、コマーシャルソングだけどいい歌だから全部録らせていただいて、CD化させていただきましょう、ということになりました。
――演歌ではないフィールドに出たときの坂本冬美さんの強さはすごいですよね。
不思議ですよねぇ。
――2013年には、ももいろクローバーZの西武ドームにゲスト出演されていますね。
私もびっくりしました(笑)。アウェイもアウェイですよ、でもあんな広いところで歌える機会はないですから。面白かったのは、私が出たら、会場が大きいから「おおー!」っていう反応に時差があったんですよ(笑)。出ていったときはあんまり反応がなくて、ほんのちょっとしたら「おおー!」と来たので、緊張もしましたけど、いい経験をさせていただきました。
――ももいろクローバーZとの競演はいかがでしたか?
かわいいですよね、ももクロちゃん。リハーサルのときに本番みたいに走り回っていて、「そんなに走ったら本番で疲れるよ!」と言ったら「全然大丈夫です!」って言われて、「あ、若いんだ」って(笑)。おばさん余計なこと言っちゃったなと(笑)。逆にすごくいたわってくれて(笑)。
――2013年には、さくらももこさん、宮沢和史さんと「坂本冬美 with M2」を結成して「花はただ咲く」をリリースしたり、2015年の「Love Songs VI〜あなたしか見えない〜」ではトータス松本さんとナット・キング・コールの「L-O-V-E」をデュエットしたり、さまざまな企画にも積極的に取り組んでいますね。ラテンの「花はただ咲く」も歌いこなされているのはさすがです。
でも、こっち寄りに書いてくれていますけどね。さくらさんからお手紙が来て、詞を送ってくださって曲もついていて、こんな嬉しいことはないじゃないですか? さっそくレコーディングさせていただこうということになり、せっかくだからおふたりにもコーラスで参加してもらおうとしたら、宮沢さんは本業ですけど、さくらさんは「無理無理!」って。だから、さくらさんは日本酒片手に「飲まなきゃ歌えない」と、スタジオが酒盛り状態の中でレコーディングしました(笑)。
――ジャズの「L-O-V-E」を歌いこなすのは難しくはなかったでしょうか?
あれは実はね、美空ひばりさんがカヴァーしてらっしゃるんです。だからひばりさんの歌を聴かせていただいて。
――美空ひばりさんはジャズをたくさん歌っていましたね。
すべてを「美空ひばりさんワールド」にしてしまうという、誰にも真似できない方です。
――坂本冬美さんはジャズをもっと歌いたいとは思われませんか?
今は思ってないです、なんか言うとやらされちゃうから(笑)。日本語にしてくれればまだね。ワンフレーズぐらいならいいけど、英語は絶対無理です。
――今の発言だと「日本語でカヴァーしましょう」という流れになるかと(笑)。
それならチャレンジしてみたいなと思いますね。
広い意味での「歌手」の中での演歌歌手
――31年目を迎えて、坂本冬美さんはご自身をどんな資質の歌手だと考えていますか?
決して器用じゃないんですよ。器用じゃないけど、カメレオンみたいにその世界に染まれる体質なのかなと。いろんな歌手の方とジャンル問わず歌うと邪魔にならないで一緒に歌えるんですよ。そういった意味では、誰にでも寄り添って歌える声質なのかなと。
――真逆なのですが、坂本冬美さんの歌の圧倒的な巧さがあるからこそだと思っていました。
ありがとうございます、それは嬉しいことです。でも、自分では意外と邪魔にならないから、いろんな人とできるのかなと。そういう柔軟性はあるのかと思っていました。
――坂本冬美さんのキャリアを振り返ると、さまざまな苦難や変化に対応してきたからこそ現在があるように感じられます。その柔軟さの秘訣はどこにあるのでしょうか?
まずスタッフにあると思います。スタッフがいろんなことをやらせたがるじゃないですか(笑)。これでも「あれは嫌だ、これも嫌だ」と言っているんですけど、その中でも「これだけはやっておきなさい」と言われることがあるんです。スタッフのアンテナが張り巡らされていて、選んで持ってきてくれてますね。柔軟性をもってやってきてくれたのは、私というよりスタッフなのではないかなと。
――さすがにご謙遜では?
そう思うでしょ? 私、本当にやりたくないことばっかりなの(笑)。本当にそうなの。今までやってきたことは、その中でも「わかりました、やりますよ」って言ったことなんですよ。自分は何か月も前から準備しないとできない人なんですよ。簡単に「シャンソンを歌え」と言われても、何か月も前から練習しないとお客様の前で歌えない人だから。それを簡単に言ってくるから「嫌だ」とも言いますよね。その中でも「これはやってください」と言われたものしかやってきてないんです。
――そうしてやったことが大きな反響を呼んできたわけですね。
スタッフが私から引き出してくれているんだと思いますよ。私だけだと、まずわからないもの。本当に今いろんな歌を歌わせていただいて、「本来の私はどこにある?」と思うときがあるんですよ。「もしかしたら演歌よりこっちのほうが合ってるの? いやいや、演歌を歌ったときのほうが気持ちいいんだよな」とか。だから、どれが一番自分らしいのかわからなくなるときがありますね。
――その結論は?
今思ってることは、今まではかたくなに「演歌歌手・坂本冬美」でしたし、それは崩さない。でも、広い意味での「歌手」の中に演歌歌手があってもいいじゃない、ってね。ただ、新聞に載るときは「演歌歌手」だから、私は間違いなく演歌歌手なんです。それがあって、いろんな枝葉が広がっているイメージでいいんじゃないの、って。その中で自分が「これは歌ってみたい」と思うものにチャレンジして、気がついたら大きな幹になり、枝葉が出てきたね、っていうような歌手になれればいいんじゃないかなと思っています。