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ロシア「裏切り者には死を」キャンペーン、暗殺兵器に数千人の殺害能力 これがプーチン大統領の正体だ

木村正人在英国際ジャーナリスト
安倍首相とプーチン大統領(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

「あの事件で、すべてを失った」

[ロンドン発]「あの事件で、すべてを失いました。子供の持ち物からマイカーまで、文字通り何もかも。妻と子供2人、私たちの家族はいまだに自分たちの家に帰ることもできないのです。今でも喪失感に打ちのめされています」

英南西部ソールズベリーでロシアの元二重スパイ、セルゲイ・スクリパリ氏(67)と娘ユリアさん(34)が旧ソ連の兵器級神経剤ノビチョクで暗殺されそうになった事件で、同氏宅に急行して一時重体となったニック・ベイリー部長刑事(38)が英BBC放送のドキュメンタリー番組「パノラマ」で初めて証言しました。

ノビチョクが入っていた偽の香水瓶(ロンドン警視庁提供)
ノビチョクが入っていた偽の香水瓶(ロンドン警視庁提供)

ノビチョクが欧州で使用されたのは初めて。香水瓶に仕込まれたノビチョクには数千人を殺害する能力がありました。ベイリー部長刑事は自分が触れた可能性のあるすべての所有物を廃棄し、破壊しなければなりませんでした。

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事件のあった日曜日の3月4日、ベイリー部長刑事は2人の同僚とスクリパリ氏宅に急行しました。他に犠牲者がいないか、自宅内を捜索するためです。その数時間後から、ベイリー部長刑事に異変が起こります。

腕に5~6本の点滴

「すごく汗ばんで熱が出てきました。その時は疲労とストレスが原因だと思っていたのです。何が起きているのか分からず、本当に恐ろしかったです」。2日後、ベイリー部長刑事は病院に運ばれました。

ノビチョクはスクリパリ氏宅の玄関ノブに塗られていました。ベイリー部長刑事は防護用手袋をしていたのに、ノビチョクは手袋を通過して体内に侵入しました。

腕には常時5~6本の点滴が打たれ、ノビチョクの解毒が行われました。「隣の病室ではスクリパリ氏かユリアさんが同じように治療を受けていました。食事のサンドウィッチを持ってきてくれた看護師は上から下までの防護服を着ていたこともありました」

「裏切り者には死を」キャンペーン

スクリパリ氏は元ロシア軍参謀本部情報総局(GRU)大佐。

テリーザ・メイ英首相は「容疑者の2人はGRUの情報部員。GRUはしっかりした指揮系統を持つ高度に統率された組織だ。この事件は組織の悪党の犯行ではない。GRU内ではなくロシア国家上層部の承認を得て実行されたのはほぼ間違いない」と指摘しています。

以前からスクリパリ氏と接触していたBBCの報道番組「ニューズナイト」の外交担当エディター、マーク・アーバン氏は新著『スクリパリ・ファイルズ』を出版したのに合わせて、記者会見し筆者ら外国人特派員にこんな見方を示しました。

スクリパリ事件について語るマーク・アーバン氏(筆者撮影)
スクリパリ事件について語るマーク・アーバン氏(筆者撮影)

「旧ソ連が崩壊し、1990年代以降、いわゆるシロビキ(軍や情報機関のコミュニティー)から多くの人材がCIA(米中央情報局)やMI6(英秘密情報部)だけでなく、中国の情報機関にもリクルートされました」

「スクリパリ氏も96年にMI6に情報を提供するようになり、ロシアで投獄されました。祖国を裏切ったスパイに制裁を加える継続的で強力なキャンペーンの一環としてスクリパリ氏は狙われたのです。彼らには裏切り者は処刑に値する正当なターゲットです」

「事件はロシア大統領選の直前に起きたため、ウラジーミル・プーチン大統領が経済の不調、年金問題など不人気な争点から有権者の目をそらし、英国という外敵を作りだすことで支持率の浮揚を図ろうとしたという見方もあります」

ユリアさん訪問が引き金

「私はユリアさんの動向が引き金になったと見ています。GRUは2013年からユリアさんの電子メールを盗聴していたことが分かっています。電話による通話やソーシャルメディアも監視されていました」

「ユリアさんがスクリパリ氏宅を訪れる正確な日時をGRUはつかんだのでしょう。16年と昨年の2月と3月にやはりGRUの工作員とみられるパスポートで入国した男がソールズベリーを訪れており、暗殺の機会をうかがっていました」

「大統領選を有利にするためと言うよりは、確実に暗殺できる機会が訪れたと判断したのでゴーサインが出たのでしょう。米フロリダで起きた事件でも4~5年監視が続いており、スクリパリ氏への監視も長期間かけて行われていました」

「スクリパリ氏が裏切り者であること、外国の情報機関にGRUの内部情報を提供し続けていたこと、確実に暗殺できるタイミングが揃ったことであの時期に事件が起きたのだと思います」

プーチン大統領は実行犯の正体を知っていた

ロンドン警視庁はパスポートからロシア国籍の「アレクサンドル・ペトロフ」と「ルスラーン・ボシロフ」の両容疑者を公開手配。プーチン大統領は「2人はロシア市民。メディアに出て話すことを望んでいる」と発言しました。

ロンドン警視庁に公開手配された2人(同)
ロンドン警視庁に公開手配された2人(同)

すぐに2人は露プロパガンダ・メディアRT(ロシア・トゥデイ)に登場し「友人に勧められて、観光客としてソールズベリーを訪れた」と潔白を主張しましたが、市民ジャーナリスト団体「ベリングキャット」がプーチン大統領の嘘と2人の正体を暴きました。

「ボシロフ」はアナトリー・チェピーガGRU大佐で、GRUのスペツナズ(特殊任務部隊)に所属。部隊は第2次チェチェン戦争で重要な役割を果たし、大佐は14年にプーチン大統領からロシアの勲章『ロシア連邦英雄』を授けられています。

「ペトロフ」はGRUのアレクサンドル・ミシュキン軍医で、やはり『ロシア連邦英雄』の受章者でした。プーチン大統領は2人が誰かを良く知っていたのです。

それにしても驚くのはGRUの情報が、市民ジャーナリストが入手できるほど大量に漏れ出していることです。タガが外れているのでしょうか。これについてBBCのアーバン氏は筆者の質問にこう答えました。

「GRUはウクライナやシリア、リビアでも作戦を展開しており、組織的な問題を抱えているのは間違いないだろう」

ロシアの裏切り者に対する暗殺キャンペーンは、スクリパリ氏の家族であるユリアさんや一般市民をも巻き添えにしており、市民社会に化学兵器による戦争を仕掛けたのと同じことを私たちは肝に銘ずるべきでしょう。

【スクリパリ事件】

3月4日、ソールズベリーの公園で、スクリパリ氏とユリアさんが意識不明の重体で見つかった。

6月30日、ソールズベリーで拾ったノビチョク入りの香水瓶を手首にふりかけた3児の母ドーン・スタージェスさん(44)が7月8日に死亡。パートナーのチャーリー・ロウリーさん(48)も一時、重体に。

ニナ・リッチに偽装した包装紙(同)
ニナ・リッチに偽装した包装紙(同)

ロウリーさんの自宅から見つかった小箱にはパリのファッションブランド「ニナ・リッチ」のラベルがはられ、香水瓶の中から大量のノビチョクが検出された。小箱や小瓶、ノズルはすべて偽物だった。

英国はロシア外交官23人を追放。米国の60人を含む西側諸国計28カ国と北大西洋条約機構(NATO)が計150人以上のロシア外交官を国外退去処分にした。安倍晋三首相がプーチン大統領と北方領土交渉を進める日本はこの中に加わっていない。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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