【九州三国志】土持氏から高橋元種まで!歴史に刻まれた松尾城の軌跡
松尾城は、文安元年(1441年)に土持宣綱が築城を開始し、文安3年(1443年)に居城を西階城から移したことに端を発します。
この城は土持氏6代134年間にわたり縣(あがた)土持氏の本城として機能しました。
その運命が大きく変わったのは、天正6年(1578年)4月10日、大友宗麟・義統の攻撃により落城し、大友領となったときでした。
しかし、その年の11月、高城川原の戦い(耳川の戦い)で島津氏が勝利を収めた後、縣は島津領となり、松尾城も再びその支配下に置かれることとなります。
その後、天正16年(1588年)、豊臣秀吉の九州仕置により高橋元種が香春岳城から松尾城に入城します。
彼が在城した15年間は、松尾城が豊臣政権下の重要な拠点となった時期でもありました。
この頃、一部の史料では松尾城が「縣城」と記されていますが、これは後の延岡城とは異なるものであり、史料上、松尾城が延岡城と呼ばれたことは一度もありません。
この混同は現代においても見られますが、明確な誤りです。
松尾城の縄張りは、宮崎県教育委員会による調査で確認された結果、南北600メートル、東西500メートルにも及ぶ広大な城郭であることが判明しました。
城域は旧高千穂線を挟み、一の城、二の城、三の城と便宜的に区分され、それぞれに異なる築城技術が見られます。
一の城は最も複雑で近世的な構造を有し、三の城は簡素な造りであることから、築城の時代的な推移を示唆するものと考えられます。
天正6年の大友氏との合戦や、島津氏配下の地頭・土持久綱による修築、さらに天正15年の豊臣秀長との合戦後の高橋元種による修築など、松尾城は幾度となく改修され、その都度、当時の最新の築城技術が導入されました。
特に高橋元種の時代には、九州仕置での経験を活かし、城郭の強化が図られたとされています。
ただし、石垣の石を転用したとの伝承には確証がなく、後世の誤解である可能性が高いです。
現在の松尾城跡は、これら歴史の層を重ねた遺構として、当時の繁栄と衰退を静かに物語っています。
この城が築かれた背景や改修の過程は、単なる軍事拠点を超えて、歴史の大きな転換点を映し出しています。