【九州三国志】延岡城のはじまりとその行方!築かれた城と消えた天守、その歴史を訪ねて
1601年、城主・高橋元種が五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に築城を始めた延岡城は、二年後に完成を迎えました。
縄張りは神田壱岐守によるもので、石垣と内堀を備えた堅牢な城構えでした。
完成後、城下町の建設に着手した元種は、町の形を整え、商人を招き、侍屋敷を設けることで、現在の延岡市の原型を築いたと言われています。
その一方で、焼き払われた神社仏閣の再建にも尽力し、宗教的な拠点の復興を成し遂げました。
しかし1613年、元種は罪人を匿った罪で改易され、城主の座を降りることになります。
その後、有馬氏や三浦氏を経て、最終的に内藤氏が支配することとなりました。
有馬康純の時代には城の大規模な修築が行われ、1655年には三階櫓を中心とする壮麗な城郭が完成したのです。
しかし、1683年に三階櫓が焼失したのを最後に再建されることはなく、延岡城はその姿を徐々に失っていきました。
明治に入ると城は廃城となり、跡地は薬園や私有地として活用されました。
戦後、太平洋戦争の空襲で内藤記念館も焼失しましたが、平成になって福井県で見つかった木図が新たな資料として注目を集めています。
時代に翻弄されつつも、延岡城はその歴史の中で多くの人々の営みを見守り続けました。
その物語は、今もなお城山の静かな風に漂い、訪れる人々に語りかけているのです。