【「麒麟がくる」コラム】明智光秀の主人である斎藤道三の子・義龍は、実子なのか!?
■権謀術数を駆使した斎藤道三
大河ドラマ「麒麟がくる」では、本木雅弘さんが斎藤道三の役を演じて、好評を博した。表題には道三が明智光秀の主人とあるが、実は疑わしい。あくまでドラマの中の話である。
斎藤道三は「美濃の蝮」と恐れられ、一介の油商人から身を起こしたと言われてきた(現在では否定されている)。そして、道三は権謀術数を駆使し、ついには美濃国一国を手に入れた。その背景には、いかなることがあったのであろうか。
■深芳野という女性
斎藤道三には小見の方という正妻がいたが、一方で側室・深芳野(みよしの)の存在も知られている。深芳野は、丹後国の名門一色義清の娘といわれているが、詳しいことは分かっていない。生没年も明らかでなく、深芳野の生涯は神秘のベールに包まれているといえよう。では、どのようにして、道三と深芳野は結ばれたのであろうか。
もともと深芳野は、美濃国の戦国大名・土岐頼芸(よりなり)の愛妾であった。頼芸はその兄と守護職を争っていたが、道三によって擁立された人物である。頼芸は深芳野を寵愛していたが、大永6年(1526)に道三に与えたという話がある。この話は『美濃国諸旧記』に記録されたものである。つまり、頼芸は褒美として、自らの愛妾を道三に与えたということになろう。
■道三が所望したのか
別に、異なった記述をしているものがある。道三は頼芸が愛妾として深芳野を囲っていたことを知り、しきりに所望したという話である。それほど深芳野は美しかったのであろう。道三は「断れば頼芸を刺殺する」というくらいの勢いで、所望したという。
根負けした頼芸は「そこまでいうならば」ということで、深芳野を道三に与えたと伝える。後に、道三は頼芸を追放するのであるから、このとき既に立場が逆転した様子がうかがえる。これは、『美濃明細記』という記録に残されたものである。
2つの記録は後世の編纂物であるため、十分な検討を要するところである。しかし、深芳野が産んだ子の義龍は、のちに大きな問題となるのである。
■道三の長男・義龍は実子か
道三に義龍という長男がいたことは、周知のことであろう。義龍は、本当に道三の子だったのであろうか。この点をもう少し考えてみよう。
さきほどの2つの記録によると、道三が深芳野を貰い受けた翌年、義龍を出産したという。義龍の生誕は、大永7年(1527)のことである。この時期が実に微妙な時期なのである。道三が深芳野を側室として迎え入れた時期も、義龍が誕生した時期も、何月であったかは分かっていない。通常、懐妊してから約10ケ月で子供は誕生する。それゆえに問題が複雑なのである。
俗説であるが、深芳野は道三の側室となった時点で、頼芸の子を懐妊していたといわれている。これが正しいとするならば、道三は深芳野が懐妊していた事実を承知の上で、結ばれたことになる。この説が俗説として簡単に退けられないのは、道三と義龍との親子関係が実に複雑だったからである。
■道三の最期
道三は、常日頃から義龍を無能呼ばわりしていたという。道三が義龍を無能呼ばわりするのは、実子でなかったからであろう。そのため道三と義龍は、犬猿の仲であったといわれている。義龍は伝聞などによって、自身が道三の実子でなかったことを知った可能性が高い。
その事実は、道三の義龍に対する態度に滲み出たのかもしれない。血も涙もない「美濃の蝮」と恐れられた道三であったが、意外に血縁関係に気を病んでいたのである。
道三の実子でないことを義龍が感じていたならば、実父の頼芸を追放した道三を許せなかったはずである。弘治2年(1556)、道三は義龍に敗れて討ち死にする。
『信長公記』によると、道三は娘婿の織田信長に美濃国を譲ることを約束したという。「美濃の蝮」の最後のはかない抵抗であった。