なぜ、スポーツ中継は選手の顔をズームアップでとらえるのか。
スポーツ中継でおなじみの人の顔を大写しにするズームアップの手法は、映画が白黒だった時代から使われてきた。
優れた選手の身体能力や筋書きの分からないゲーム展開を楽しむためだけなら、より広く、より全体を映し出すだけでよいはずだ。それなのに、なぜ、スポーツ中継では選手の顔をズームアップでとらえるのだろうか。
それは、視聴者により「共感」してもらうためだろう。
ヒトの脳にはミラーニューロンという特殊な細胞の集まりがあるそうだ。他者の動きを目にすると、ミラーニューロンが働いて、自分がそのように動いているかのように脳内で再現するのだという。
だから、スポーツ中継は人気がある。
しかし、目にした全ての他人の動きに対して、ミラーニューロンが同じように活性化しているのではないようだ。どこかで制御したり、選択したりしているのだろうか。自分に関心のあること、経験のある動き、関係のある人を見たときに、強く活性化するようだ。
前述したようにスポーツ中継は人気のコンテンツだが、関心の薄い大会やよく知らない競技の中継に、最初から食い入るように見入るということは少ない。
『スポーツの魅惑とメディアの誘惑』(阿部潔・世界思想社)でも、
「基本的な知識も持たずに球技の試合を眺めていても、面白さを感じることはない」と書かれている。
そのため、メディアは視聴者に基本的な知識を与えるために、実況、解説、記事を通じて、ルール、技術や戦術を伝えている。しかし、それだけでは視聴者に共感してもらうのには不十分なのだ。
見るだけで誰もが、その選手に共感できるものは何か。
それは顔の表情だ。
その競技について詳しい知識がなくても、選手の顔の表情ならば、ほとんどの人が読み取ることができる。そして選手の感情を共有し、共感できる。
ヒトには他人の顔から多くのことを読み取る能力がある。
『まねが育むヒトの心』(明和政子・岩波ジュニア新書)によると、
新生児でも顔の情報処理を詳細に行っていて、生後3日目で閉じている目と開いている目を区別できるという。他者の心の状態を深く読み、他者にとって利益になるふるまいをこれほど明確に示すのはヒトだけだという。
人間は他の人の動きや表情を見ること、そして、共感することが、とても好きなのだろう。
オリンピックやプロで活躍する選手のような身体的パフォーマンスそのものは、一般人には完全に再現することはできない。だから、憧れる。彼・彼女らはスター選手なのだ。
一方で、選手の表情や感情ならば、見る側の人間にも多少は同じような経験があり、共有しやすい。表情のズームアップによって、視聴者は、手の届かないスター選手と自分とを、より重ね合わせていくことができる。
そのことによって、その選手やその競技に関心を持ち始めるという人も少なくないはず。ファン拡大に一役買っていると思う。
選手の表情のズームアップは、見る人に共感を与えやすいが、同時に、その選手個人がどういう人かを、とてもよく表すものでもある。
そこから、スポーツ選手個人の物語化へと展開されていく。物語はときには、人としてのあるべき姿として語られたり、学生スポーツでは道徳的規範と結びつけられたりする。
ヒトの脳はもともと他人の動きを見て、自分の動きのように感じられるようになっているらしい。他人の表情を読み取ることで、他人に共感できる力も備わっているようだ。だから、ズームアップの手法がこれほど定着しているのだろう。
しかし、共感を呼び起こすための過剰な物語化は、共感疲れを引き起こしてしまうのではないか、とも思う。
ヒトの脳が、どのあたりを演出過剰と感じ、どのあたりで共感することに疲れるようになっているのだろうか。人それぞれなのかもしれないが。