2024年1月、ダイヤモンド社から『最後の適当日記(仮)』を上梓した高田純次さん。読めば、「適当男」の脳内を眺めるかのような臨場感のある、抱腹絶倒の日記文学だ。
そんな高田さんに「挫折からはじまった」という彼の人生の紆余曲折について、話を聞いてみよう。
団塊の世代の一期生として生まれたオレの人生は、挫折からはじまった
日本一の「適当男」のキャッチフレーズでおなじみの高田さんだが、幼いころは意外なことに(失礼!)、「神童」と呼ばれるほど優秀な子だったという。以下は、そのことを確かめたときの本人コメントである。
団塊の世代に生まれて、「神童」と呼ばれるのが、どれだけすごいことかというと、同じ年の人たちの名を挙げてみればよくわかる。
世界の「KITANO」こと北野武さんを筆頭に、俳優の西田敏行さん、泉ピン子さん、歌手の森進一さん、教育評論家の尾木ママこと尾木直樹さん、怪談の名手である稲川淳二さんといった錚々たる面々の名が列なる。
初めてもらった「合格」通知。うれしくて赤飯炊いちゃった
大学進学をあきらめて、御茶ノ水にある東京デザイナー学院のグラフィックデザイナー科に入学した高田さん。ところが当時は「石を投げればイラストレターに当たる」と言われていた時代、ここを卒業しても第一線で活躍できるとは思えず、ぶらぶらとフリーター生活をしていた。
そんな高田さんの醒めた気分をガラリと変えたのは、25歳のとき、演出家の串田和美(かずよし)さん、俳優の吉田日出子さんらが結成した自由劇場が上演した「マクベス」に感動したことだった。
目の前で俳優が汗だらけでツバを飛ばしながら熱演している姿に心を打たれた高田さんはその日、「研究生募集」のチラシを見つけて演劇の世界に飛び込んでいく。
せっかく燃え上がった演劇熱もすぐ冷めた。オレって本当に飽きっぽいね
その後、研究所で知り合ったイッセー尾形さんと劇団「うでくらべ」を結成し、独自の演劇活動を始めた高田さん。
だが、その活動は長続きせず、1年たらずで解散して、高田さんは宝石鑑定士の資格を取って宝石の卸会社に就職する。
一体、何があったのか?
安定した生活を捨てて劇団員に。もう「魔がさした」としか言いようがないね
その後、奥さんとの間に第一子である長女も生まれ、生活も安定していったというが、高田さんの「邪道の人生」の紆余曲折は、まだまだ続く。
サラリーマン生活が3年半経ったある日、本人曰く、「魔がさした」という理由で奥さんに黙って会社を辞めてしまうのだ。
このとき、高田さんは30歳の妻子持ち。
だが、人生を逆から見てみれば、この選択はその後の高田さんの人生を決定づける、重要な選択だった。
なぜなら、「東京乾電池に入団」という人生のピースは、「テレビに進出して人気者に」というピースにつながり、その後の「1987年、グロンサンのCM『5時から男』でブレイク」、「数多くのCMに起用されて『CMの帝王』と呼ばれる」というピースへとつながっていくからだ。
そう考えてみると、「魔がさした」という兆しは高田さんにとって、「幸運のシッポ」をつかむチャンスだったと言えるのではないだろうか。
※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版も読んでください。
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