【九州三国志】島津義弘、武と情の武将!揺るぎなき信念と温情が織りなす伝説
島津義弘は、その猛将としての武勇に加え、家族や家臣、さらには敵に対しても温情深い人柄で知られています。
兄・義久を終生敬い、「予、辱くも義久公の舎弟となりて」と自ら記すほど兄弟の絆を重んじ、島津家四兄弟の結束は固く、秀吉や家康の挑発にも揺らぐことはありませんでした。
一方で、『樺山紹劔自記』に「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しくない」と描かれるなど、人間味あふれる一面もあったのです。
その勇猛さは数々の戦場で発揮され、特に木崎原の戦いでは寡兵で大軍を打ち破り、「膝突栗毛」と名付けた愛馬と共に命を懸けた戦いを繰り広げました。
さらに、関ヶ原では伝説的な「島津の退き口」を演じ、数百人の兵とともに敵中突破を成功させたことは今も語り草です。
一方、敵将を含む将兵の供養塔を高野山に建立するなど、敵味方問わず命を尊ぶ姿勢を見せました。
また、朝鮮出兵では凍死者を一人も出さないよう兵卒に気を配り、共に囲炉裏で暖を取るなど、部下から深く信頼される存在でした。
義弘の人情味は家族への深い愛情にも表れています。
朝鮮の役では、妻への手紙に「もし自分が死んだら子供たちはどうなるのか」と涙ながらに書きつづり、子供の誕生や元服の際には必ず声をかけ励ましていました。
また、秀吉から拝領した播磨の領地では恩義を感じた井上惣兵衛尉に島津姓と家紋を与え、後の島津製作所の祖とされています。
文化面でも義弘は卓越しており、戦場での医術や茶の湯に精通していました。
千利休や古田織部に学び、茶の心を理解した義弘は、織部からの指導を受けて薩摩焼にも関わるなど、多才な一面を見せています。
また、義弘は若いころの血気盛んな勇姿とは裏腹に、晩年は家臣や若者の教育に力を注ぎ、地域社会への貢献を続けました。
義弘の生涯は、ただの猛将ではなく、文化人としての品格、そして人情と信念を併せ持つ人物としての豊かな人間性を感じさせます。
彼の辞世に詠まれた「天地の 開けぬ先の 我なれば 生くるにもなし 死するにもなし」は、その激動の生涯を象徴するかのようです。
義弘の温かい人柄と揺るぎない武勇は、後世にわたって伝説として語り継がれています。