「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(3)巡礼
1946年に復員して千葉県立佐原女子高校の英語教師になった元タイ・カンチャナブリ憲兵分隊通訳、永瀬隆さんは拷問や戦争捕虜(POW)の遺体掘り起こしに立ち会った場面にうなされるようになり、故郷の岡山県に戻った。55年、倉敷市で英語塾「青山英語学院」を開設する。
それでも戦争体験のトラウマと悪夢から逃れることはできなかった。呼吸困難の発作に見舞われるようになった。
戦中戦後、日本人の海外旅行は規制されていたが、64年、一般市民の海外旅行が自由化される。永瀬さんは居ても立ってもいられずタイを訪問、約7千人の捕虜が眠るカンチャナブリの戦争墓地に足を向けた。
生前の永瀬さんにインタビューしたことがある上智大学外国語学部の根本敬教授(ビルマ近現代史)におうかがいした話を続けよう。
永瀬さんは十字架の前で花を手向け、ひざまずいて犠牲になった捕虜に自分の悲しみを吐き出した。そのとき、戦後20年近く永瀬さんを苦しめてきた自責の念、罪の意識といった感情がスーッと消えていった。
「自分は許された。許された以上、泰麺鉄道建設に苦しめられたすべての人々のために深い悔恨を吐露しよう。償いのために自分の残りの人生を捧げよう」と悟った。永瀬さんは後に根本教授に「人生で一番の宗教的体験だった」と語ったという。
永瀬さんは毎年、自費でタイの留学生を日本に招待、86年に、障害を抱えるタイの若者や、お年寄りを支援するため「クワイ河平和基金」を設立した。そして、同じ年にカンチャナブリのクワイ河にかかる橋の近くに仏教寺院の「平和寺院」を建立する。
「たった1人の戦後処理」だった。和解を求める永瀬さんの手は生き残った元捕虜にも差し伸べられた。「学生時代、青山学院で英語を学んだのも償いの人生を歩むためだった」という内なる声に導かれて、永瀬さんは英国の退役軍人会などに手紙を書き続けた。
元捕虜は旧日本軍への憎しみを心の中で煮えたぎらせていた。永瀬さんは何度も挫折を味わいながらも、和解を呼びかけた。その努力がようやく実ったのが76年10月。23人の元捕虜がクワイ河のかかる橋の上に集まった。
和解に向けた第一歩は元捕虜の批判も巻き起こした。「旧日本軍と和解するのは裏切り者の行いだ」。旧日本軍の間にも永瀬さんの活動への反発は強かった。それでも永瀬さんは地道に元捕虜たちとの和解活動を続けていく。
89年8月15日、日本の終戦記念日に英字紙ジャパン・タイムズに掲載された永瀬さんの記事を読んだ元英国人捕虜エリック・ロマックスさんは復讐心にとらわれ、身動きできなくなっていた。
自分の拷問に立ち会った日本人通訳が生きていたという衝撃。泰緬鉄道建設のトラウマに絡め取られて、自死した元捕虜もいる。戦後30年、40年経っても自分を苦しめ続ける地獄の体験を共有できるのは、退役軍人会の集会場に集まってくる元捕虜だけだった。
体験を口にすることはトラウマを増幅させる。ロマックスさんはその後も沈黙を続ける。
行動を起こしたのは、ロマックスさんを心的外傷後ストレス障害(PTSD)の苦しみから解放しようと努力していた妻のパティさんである。ジャパン・タイムズ紙の記事が掲載されてから2年後の91年10月、パティさんはロマックスさんの写真を同封して永瀬さんに手紙を書いた。
「私の主人は戦後ずっと、狂気に満ちた戦争の体験に苦しめられています。しかし、あなたは許されたと感じている。拷問された元捕虜の主人があなたを許したわけでもないのに、どうしてあなたは許されるのでしょう。あなたと主人がお互いに連絡を取ることによって双方が戦争体験から癒されることを願っています」(ロマックスさんの自伝『The Railway Man』より、仮訳)
翌11月、永瀬さんからの返信がロマックスさんのもとに届く。
「思いもしないお便りでした。『元捕虜があなたを許したわけでもないのに』という言葉が胸に重く突き刺さりました。暗黒の日々が蘇ってきました。考える時間を少し下さい」(同)
カンチャナブリへの贖罪と慰霊の巡礼の旅が2人を結びつけようとしていた。永瀬さんは実際に拷問を行っていたわけではないが、ロマックスさんの脳裏には永瀬さんの英語がこびりついていた。
軍法会議にかけられるために出発する直前、小柄な永瀬さんが耳元でささやいた「しっかりするんだ(Keep your chin up)」という一言は極限の中で見た一筋の光明のようにも思えた。
ロマックスさんは永瀬さんと向き合うことを決意する。2人とって悪夢の拷問から実に48年以上の歳月が経過していた。
(つづく)