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『人間失格』を書いた小説家・太宰治を井上ひさしが描く。こまつ座『人間合格』

中本千晶演劇ジャーナリスト
太宰を演じる青柳翔 ※記事内写真 撮影:宮川舞子

 正直、太宰治という作家のことをあまり良く知らない。『人間失格』『グッド・バイ』『斜陽』などの小説を書いた人、そうそう教科書に載っていた『走れメロス』もそうだっけ。そして、玉川上水で愛人と入水自殺した人。そんな断片的な暗いイメージだけがあるけれど、実際のところはどんな人だったんだろう? 

 …そんな興味から、こまつ座『人間合格』に足を運んでみた。井上ひさしが描く、太宰治の評伝劇である。今回はこまつ座初出演のメンバーを中心とした新鮮な座組だ。演出を鵜山仁が担当する。

 

 幕開け、何枚か残っている太宰の写真がいっせいに掲げられる。幼少期から学生時代、そして玉川上水の桜を背景にした1枚まで。それぞれの写真ごとに1場面という構成で展開していく。始まりは、津軽の地主の坊ちゃんだった津島修治(太宰の本名)が東京帝国大学に入学し、下宿の一室で2人の友と一緒に社会主義に傾倒していくところからだ。

津島修治と佐藤、山田。3人は固い絆で結ばれるが…(左から、塚原大助、青柳翔、伊達暁)
津島修治と佐藤、山田。3人は固い絆で結ばれるが…(左から、塚原大助、青柳翔、伊達暁)

 だが、3人はその後、それぞれの道を歩み始める。社会主義の活動家として愚直に歩み続ける佐藤浩蔵(塚原大助)。「活動」の途中にたまたまレビューの劇場に立ち寄ったのがきっかけで人気スターに上り詰める山田定一(伊達暁)。活動家としては甘ちゃんだった修治(青柳翔)はあっさり離脱、弱い自己の内面と向き合いながら小説家・太宰治として歩み始める。

 

 そんな太宰と故郷・津軽を結ぶ「くびき」として事あるごとにぬるりと立ち現れるのが、津軽の父の懐刀であり幼い頃から太宰の面倒を見てきた中北芳吉(益城孝次郎)である。断ち切りたい断ち切りたいと願っても決して断ち切れない、太宰にとっては懐かしくもやっかいな存在だ。

 

 三人三様の生き様の前にあって、太宰はむしろその観察者である。だか、物語が終盤に差し掛かったとき、初めて私の中で「人間太宰治」が生き生きと浮かび上がってきたのだった。

 (この後、ネタバレあり注意)

太宰の地元・津軽に興行にやってきた山田たちの一座に、中北は次々と無理難題を押し付ける(左から、益城孝次郎、青柳翔、北川理恵、伊達暁)
太宰の地元・津軽に興行にやってきた山田たちの一座に、中北は次々と無理難題を押し付ける(左から、益城孝次郎、青柳翔、北川理恵、伊達暁)

  

 活動家として社会主義に身を捧げる佐藤は、自分に正直な故に世間の辛酸を舐める。名前を変え住む場所を変え、陽の当たらない場所で生き続けねばならない。いっぽう世間に媚びてスポットライトを浴び続けてきた山田は、人生の終盤になって自分自身につき続けてきたウソの積み重ねのしっぺ返しを受けることになる。

 

 そして、一筋縄でいかないのが中北だ。一見、太宰の故郷津軽を体現する素朴なおじさんとして登場したかと思いきや、時代がどれほど大きく変わってもタヌキのように変幻自在に立ち回る、したたかな存在だ。

 

 三人三様の生き様を見届けた時、小説家太宰の役割が見事に浮かび上がってくる。それが、小さな宝石を拾い上げるという役割である。自身を「人間失格」と称した太宰だが、この作品の中での太宰は、この3人に代表されるような全ての人たちに対して「人間合格」というメッセージを送る役割なのだ。それは翻って、作者の井上ひさしが太宰自身に対して送ったメッセージでもあるようだ。

 

 各場面ごとに、3人に絡む色々なタイプの女性たちを北川理恵、栗田桃子が演じ分ける。彼女たちをみていると、いつだって女は男に振り回されるけれど、結局のところ女のほうが男よりたくましいのかも、と思ったりする。カフェのメイドとして踊りまくったり(振付は謝珠栄)、三味線を弾きながら唄ったり(このために三味線もマスターしたとのこと)、達者な芸も楽しい見どころだ。

 

 演劇人にも深い影響を与えてきた社会主義というイデオロギーの位置づけが、戦前から戦後にかけてどう変化して行くかが端的に描かれていくのも興味深かった。しかし、時代とともに軽やかに豹変する中北の前にあっては、社会主義も民主主義も、どんなイデオロギーも薄っぺらな紙切れのように見えてしまう。「家族を守ることが自分にとってのイデオロギー」、中北はふてぶてしくそう言い切る。実はこれこそが中北を始め多くの日本人が信奉する一番強固なイデオロギーなのかも知れない。

戦争が終わった途端にあっさりと宗旨替えした中北、その姿はまるで…(左から、青柳翔、塚原大助、益城孝次郎、北川理恵、伊達暁、栗田桃子)
戦争が終わった途端にあっさりと宗旨替えした中北、その姿はまるで…(左から、青柳翔、塚原大助、益城孝次郎、北川理恵、伊達暁、栗田桃子)

 3月後半に劇場がバタバタと閉まって以来久しぶりのリアル観劇。観終わって劇場を後にするとき、とても満たされた気分を味わった。何なんだろう? この、心に空いた穴が埋まったような感覚はいったい……??

 演劇はなくても生きていけるものかも知れない。この3カ月、そう自分に言い聞かせて過ごしてきた。オンライン演劇も色々と見てきて、それはそれで独自の面白さがあることもわかった。でもやはり、リアル演劇があるおかげで私の人生の隙間は埋められて、より完成度が上がるというか大きな丸になるというか、今、そんな感覚を受け止めている。

 

 私もまた「人間合格」なんだよ、ね? 観客の一人ひとりに、そんな風に太鼓判を押してくれるような作品でもある。だから、先の見えない今だけど、自分なりに何とか頑張っていこう。そんなことを、ふと思う。その意味でも、リアル観劇の第1作に相応しい舞台だったように思う。

太宰と佐藤、山田。世の中がどんなに変わっても3人の友情は変わらなかった(左から、青柳翔、塚原大助、伊達暁)
太宰と佐藤、山田。世の中がどんなに変わっても3人の友情は変わらなかった(左から、青柳翔、塚原大助、伊達暁)
演劇ジャーナリスト

日本の舞台芸術を広い視野でとらえていきたい。ここでは元気と勇気をくれる舞台から、刺激的なスパイスのような作品まで、さまざまな舞台の魅力をお伝えしていきます。専門である宝塚歌劇については重点的に取り上げます。 ※公演評は観劇後の方にも楽しんで読んでもらえるよう書いているので、ネタバレを含む場合があります。

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