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楽天・森原、初白星は祖父へのプレゼント

楊順行スポーツライター
昨年は雑誌『ホームラン』でドラフト候補にとりあげた

「素直にすごくうれしいです。勝ちはおまけとして、ウイニングボールは実家のおじいちゃんにあげます」

30日の日本ハム戦、中継ぎで1イニングを無失点に抑え、プロ入り初勝利を記録した楽天・森原康平はそういった。昨年のドラフト5位で新日鉄住金広畑から楽天入りすると、開幕から中継ぎでフル回転。10試合連続無失点を続け、「球数が少なくて安定している」と、梨田昌孝監督の信頼を手にした。無失点は19日の西武戦で途切れたが、チーム21試合目のこの日、自身15試合目で白星を手に入れた。

思い出したのが昨年、ドラフト候補として取材したときのエピソードだ。広島・福山育ちの森原。

「もともと、祖父(孝志さん)が野球好きでして。野良仕事をしながら野球中継を聞いているわきで、僕は壁当てをしていたし、キャッチボールやノックをしてもらったこともある。野球を始めるきっかけというか、いつも相手をしてもらいました」

ちなみに、小学生時代から広島市民球場に連れて行ってくれたのも孝志さん。その影響で森原は、広島ファンになったという。中学まではキャッチャーだったが、京都外大西などを率いて甲子園で準優勝経験のある三原新二郎氏の助言で中2から投手に。三原氏が監督に就任する年、山陽高に進学した。森原は振り返る。

「ぼくらの年代で甲子園出場を狙う、ということで、同期は60人ほど入りました。ですが3年の夏は、僕がエースとして準決勝で如水館に負け、結局甲子園には行けませんでしたね。その高校時代も、また大学(近大工学部)時代もプロ志望届は出していませんが、大学の全国大会で投げ合った山崎(康晃・DeNA)や近藤(大亮・オリックス)らがプロ入りしてから、意識はするようになりました」

"このままじゃ……"の危機感が

その大学時代は3、4年の2年間だけで19勝して社会人入りするが、1年目はほとんど公式戦の登板なく終わる。「タマも全然いかず、このままじゃ社会人でやっていけない、と痛感した」という。加えて当時の近畿地区では、「広畑はエース不在」といわれていたのが火をつけ、1年目のオフに取り組んだのが下半身強化だった。大学時代からもともと、「もっと下半身を使えば……」と課題にしてきたことで、とくに重視したのがいわゆる"股割り"である。

あらかじめ両足を開いて地面につけ、体重移動だけで繰り返しネットにボールを投げる。実際の投球時の9割程度に踏み出して足を開き、腰が浮かないようにして左、右、そして左と重心を意識して投げる。これが、けっこうきつい。「一箱、数にして100くらい投げたら、もう下半身はぱんぱんになります。これが下半身強化としてトレーニングになりましたし、またフォーム固めにも役立ちましたね。球威とコントロールが増し、社会人2年目は初戦を任せてもらえるようになったんです」(森原)

なるほど15年は、京都大会で完封するなど、エースに成長。3年目の昨季は、さらに成長を見せていた。初めての都市対抗では、日本新薬の補強としてHonda熊本戦の9回に救援し、いきなり自己最速を更新する151キロを計時するなど2者連続三振。「ストレートが強く、まっすぐだけで勝負できる。抑えとして使いたい」という日本新薬・岩橋良知監督の期待に見事に応えるのだ。

だが実は、球速にはさほどこだわりはなかったのだという。

「2年目のオフ、さらに下半身強化が必要だと思い、股割りに加えてしっかり走ったら、もう一段スピードが上がったんです。大学までは、変化球が3、4種あって、コントロールさえよければある程度抑えられると思っていた。だけど下半身を強化してスピードが上がると、やはり打者を押し込めるんですね。スピードにこだわりはなかったけど、これだけ簡単に打ち取れるのなら、もっと早くからスピードを重視していればよかった……と思いました(笑)」

長年ファンだった広島と、交流戦で対戦するのが楽しみだ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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