引退の阪神・安藤優也 一度は軟式転向決意から「虎のエース」となった野球人生
生まれ故郷の九州でもマウンドに立つ姿を
今季限りで現役引退する阪神の安藤優也投手が24日、タマスタ筑後でのソフトバンク2軍戦に登板した。本拠地甲子園での引退試合を控えているが、「わがままを言わせてもらって」と生まれ故郷の九州での登板を希望して実現した。
6回からマウンドに上がった。先頭の城所龍磨を3球三振。「空気を読んでくれたんだよ」と照れ笑いしたが、138キロの直球には表示以上に力が感じられた。その後、川瀬晃に内野安打を許し、まさかのボークと投野選で1アウト一、三塁のピンチを作ってしまう。
内川との「大分対決」を制して1回無失点
ここで打席に迎えたのは「出来れば対戦したいと思っていた」という、同じ大分出身の内川聖一。わずか2球で追い込むと、最後は変化球で投ゴロに打ち取った。そして最後のアウトはジェンセンから空振り三振で奪ってみせた。走者は許したが、1回を無失点。満員の3,113人のスタンドからは大拍手。阪神ファンだけでなく、ソフトバンクファンからも大きな声援が飛ぶ中、静かにマウンドを降りていった。
16年間、阪神一筋で投げ続けた。入団2年目の‘03年はセットアッパーとして51試合に登板してチーム18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。先発としては‘08年から‘10年まで開幕投手を務めて3年連続で開幕白星を手にした。これは長い阪神の歴史において安藤だけが持つ記録だ。昨年まで485試合登板、うち133試合に先発。77勝66敗11セーブ76ホールドの成績を残した。背番号16はあらゆる場面でチームの為に右腕を振り抜いてきた。
地元で銀行員になるはずだった
阪神のエースとして一時代を築いた。しかし、思えば、その姿が見られたのは奇跡的だったのかもしれない。
安藤は法政大学卒業とともに、プロ野球の道を諦めるつもりだった。地元の大分銀行から就職内定を得ており、そこで軟式野球を続けることを一度は決めていた。
「大学時代に右肩を痛めて、最終学年でも痛み止めを飲みながらダマしダマし投げていた」
ネット情報などによれば、この時、大学の同級生である現在の奥様から背中を押される形で「東京六大学記録の23本目を打たれた選手のままじゃ終われない」と一念発起して、内定を断って社会人のトヨタ自動車に進む決意をしたという記述がある。大学2年の秋、当時慶応大の高橋由伸(現巨人監督)にリーグ新の23号を打たれたのが安藤だったのだ。
「あと3キロ」の言葉で一念発起
「それもあったけど、他にもいろいろあった。当時の法政の山中(正竹)監督からも背中を押されたし、プロのスカウトが『あと3キロ速くなれば指名する』という声も耳に入ってきた。あと3キロならば何とかなるんじゃないかって。もう4年生の11月頃だったけど、周りの助けもあってトヨタに入社することが決まった。トヨタで野球をするってことはプロを目指すということ。そこでまた目標が出来た」
その後のプロ人生でも右肩痛には悩まされた。個人トレーナーとも契約するなどして、体のケアには人一倍気を遣った。肩のインナーマッスルを強化するために、自宅のあらゆる場所にはゴムチューブを巻いた。ソファに座ってテレビを見る何気ない時間でも、右手でそのゴムを引っ張ってトレーニングをしていた。
登板はあと2回。ラストは10・6一軍甲子園
「今年、右肩痛はなかったよ。ただ、8月までに一軍に上がれなかったら、もう終わり(引退)かなと頭の中にはあった。そして上がることは出来なかった。そしたら、2軍でも打たれるようになった。シーズンの前半は結構抑えていて防御率0点台だったんだけどね。やっぱり野球って気持ちなんだなって改めて感じたよ」
そして、晴れやかな笑顔を浮かべて言った。
「16年間もやれるなんて最初は考えもしなかった。十分やったと思うよ」
27日、甲子園球場で行われる2軍戦でも登板予定。この日は同じく引退をする狩野恵輔のためにマウンドに上がるのだという。
そして、引退試合は10月6日に甲子園球場で行われる一軍今季最終戦の中日ドラゴンズ戦。タイガースを愛し、タイガースに愛された右腕が最後のマウンドに立つ。