あの人はなぜプロへ行かなかったのか——應武篤良の場合
今年のプロ野球ドラフト会議が、ちょうど1か月後に迫った。現在は高校・大学生はプロ志望届を提出した選手が指名の対象となるが、以前は社会人などすべての選手が蓋を開けてみなければわからない当日を様々な思いで待っていた。そして、晴れて指名されたものの、入団を拒否する選手は珍しくなかった。では、プロを選ばなかった彼らには、どんな理由があったのだろうか。
9月7日、64歳の若さで亡くなった應武篤良は、崇徳高3年春に甲子園で優勝して注目され、1976年のドラフト会議で近鉄から3位指名を受ける。この年の捕手では、阪神2位の続木敏之に次ぐ評価の高さだった。しかも、崇徳高からは黒田真二投手(元・ヤクルト)が日本ハム1位、山崎隆造内野手が広島1位、小川達明外野手が広島5位と、4名も指名された。
「私は早大への進学を希望していたので、まさかの指名でした」
應武が進学を希望した理由は2つあった。公務員である父親が進学を望んだこと。また、夏の甲子園のあとに選出された高校日本選抜チームに進学希望者が多かったことだ。
「韓国遠征の際に、秋田商高の武藤一邦(元・ロッテ)が言い出して、東京六大学で再会しようという話になったんです。武藤も、南海の1位指名を断って法政に進学しました。また、そんな凄いメンバーとプレーしてみたら、私自身はプロでは通用しないんじゃないかという不安も感じていましたしね」
スカウトとの面会はすべて父親に任せ、受験勉強に専念していた中での指名。應武の気持ちが揺らぐことはなかったのだが……。
「12月になり、当時の西本幸雄監督が実家まで説得にいらした。『進学希望だから指名を迷ったが、評価は1位だ。必ず試合で使うよ』と言われると、気持ちがかなりプロに傾きました。結果的には、父親に『意思を貫け』と言われてお断りしましたが」
そうして早大へ進学し、心技に磨きをかけて東京六大学を代表する捕手に成長すると、4年時には再び数球団が声をかけてきた。
「でも、4年間に高卒でプロ入りした同級生たちがどうなったかを見ている。やはり、甘い世界ではないと実感していましたし、夢を追う以上に、好きな野球を安定した環境でやりたいという気持ちが強くなっていました」
指導者としては選手にプロを意識させた
そうして、プロ入りの意思はないと断り、新日本製鐵広畑へ入社する。都市対抗優勝を目指して必死にプレーし、30歳で日本代表に選出され、ソウル五輪にも出場。のちにメジャー・リーグでも活躍する野茂英雄や古田敦也(元・東京ヤクルト監督)らとともに銀メダルを獲得した。
「故郷・広島で3歳上の先輩にあたる達川光男(元・広島監督)さんのプレーをテレビ中継で観て、『俺にもあれくらいはできるぞ』と生意気にも思ったり、同期の原 辰徳(現・巨人監督)の活躍にジェラシーを感じたり……。そうして、プロ入りしなかったことを後悔した瞬間もありましたね(笑)。ただ、高校時代から素晴らしい選手たちを間近で見てきたからこそ、指導者になった時はその経験が生かせると思いました」
1994年夏、全国では目立った実績のない新日本製鐵君津で監督に就くと、松中信彦(元・福岡ソフトバンク)や森 慎二(元・埼玉西武)を柱にしてチームを強化し、1996年には都市対抗でベスト8に導く。さらに、2000年の都市対抗ではサブマリンの渡辺俊介(現・日本製鉄かずさマジック監督)を擁してベスト4まで進出した。指導者になってからは、選手の大きな成長につなげるため、プロの世界を意識させることもあった。
「プロを目標にする選手には、何とか夢を実現できるように指導しますし、そのための力にもなる。ただ、ひとりの社会人としての立場で考えれば、高額な契約金によって選手が伸びなくなってしまうことも懸念しているんです。社会人は、お金の有り難味を知っているからいいけれど、学生が入る前から大金を手にしたら、おかしくなっても仕方ないでしょう」
その後、早大監督時代には斎藤佑樹(元・北海道日本ハム)らをプロに輩出し、2018年からは母校の崇徳高で指導していた。
プロ入りしなかった経緯を取材した際、企画のタイトルを「古田にならなかった男」だと伝えると、「でも、一緒にオリンピックに出た頃は、古田が『まだ應武にはなれない男』だったよね」と冗談ぽく言って笑っていた」