<追悼 バムルン・カヨター>アジアグローバリゼーションに立ち向かったタイ農民運動者(上)
<追悼 バムルン・カヨター>
アジアグローバリゼーションに立ち向かったタイ農民運動者(上)
農業記者として国内とアジアの村を歩いて62年が過ぎた。たくさんの農民と出会い、語り合い、教えられ、行動してきた。同じように歳をとり、大切な仲間が逝ってしまう。2022年には佐賀の農民作家山下惣一を失った。23年には日本の有機農業運動の先達、山形の星寛治が世を去った。そして今年6月、タイの農民バムルン・カヨタがいなくなった。73歳の早い死だった。タイの農民運動をけん引するたぐいまれな農民運動のリーダーとして大きな足跡を残した。彼と友人付き合いを始めて36年になる。彼に連れられ、東北タイを中心にタイの村を随分歩いた。運動の最前線にも立ち会った。以下、自分なりの追悼を記した。
◆アジアへ
最初にタイの村に足を踏み入れたのは1990年2月であった。その前年の1989年、ベルリンの壁が壊され、東側世界が音を立てて崩れていた。東西冷戦が終わり、世界が一つの経済圏になった。80年代初頭から始まっていた新自由主義にとって、かっこうの舞台が登場した。すべてのものが商品化され、値段をつけられて世界中を駆け巡る。それは本格的な経済成長前夜だった東南アジアの国々をゆるがした。そんな時代、国内だけをみていただけでは農業のこともわからないな、と突然思いついて、折に触れアジアの村を歩くようになった。
1990年、タイの旅は東北タイ、カラシン県のバムルン・カヨタ(以下、通称ヨーさん)の村から始まった。旅の仲間は山下惣一、菅野芳秀、菅原庄市、疋田美津子ら主として百姓衆。ヨーさんはこの時の旅の発議者である置賜百姓交流会の菅野芳秀の友人で、タイNGOで活動していたバンさんとともに旅全体をコーディネートしてくれた。
その前年の1989年秋、アジア太平洋資料センター(PARC)がアジア太平洋地域の民衆組織に呼びかけて国内で開いたピープルズプラン21(PP21)の催しのなかで私はヨーさんとははじめて会っている。PP21は当時PARCの代表委員を務めていた武藤一羊さんが21世紀を民衆の世紀にしようとアジア太平洋全域の民衆組織やそのリーダーに呼びかけて開催したもので、受ける側も日本の各分野の民衆組織や活動家が結集した。その広がりは平和、環境・公害、女性、先住民、労働、農業など多岐にわたり、全国各地で集会、シンポ、座談、現地調査をやりながら旅をした。私自身は、武藤さんから農業部門の国内でのコーディネータをしないかと声がかかり、 嵐に巻き込まれた。
農業部門ではタイ、フィリピン、インド、台湾、韓国、アメリカ、オランダから農民組織と農民が参加し、山形・置賜、岩手、新潟を歩いた。圧巻は置賜百姓交流会が実行委員会を作って行ったPP置賜で、置賜各地で農民どうしならではの交流が実現した。ヨーさんは当時アジア学院に留学していて、菅野芳秀の誘いでタイ農民代表のひとりとして参加した。韓国で自然農業のグループを立ち上げていた超漢珪(チョウ・ハンギュ)さんには大野が個人的に呼びかけて加わってもらった。超さんにはその後、アジア農民交流センターを立ち上げたとき、ヨーさんと並んで名を連ねてもらった。(注1)
◆からっぽの豚舎
当時、タイの村はまだのどかさを色濃く残していた。耕運はもっぱら水牛。彼らは1日2時間以上働かないで、田んぼに座りこんで昼寝する。人もそれに連れられて昼寝。夕方になると子どもが水牛を引き連れて牛舎にかえる。そんな村でヨーさんは小規模養豚の営み、村の養豚組合の組合長を務めていた。ヨーさんの豚舎は、彼が自分で掘った養魚池のまわりの土手の上に立てられ、そこには白黒茶色と色とりどりの大小の地豚の母豚が飼われ、元気いっぱいの子豚で賑やかだった。(注2)
その翌年の91年4月、私は再びヨーさんの村にいた。豚舎が空っぽになっていた。どうしたんだ、と聞くと彼は「CPだ」といった。(農産・食品を軸とするタイ最大の企業グループ、チャロン・ポカパンの略称)。タイ政府はそれまで地域の小規模畜産を保護するため、県境を越えての豚の移動とと殺を規制していたが、CPの働きかけでその規制が取り払われ、CP傘下の大規模畜産の豚が流入、肉があふれて小規模養豚はほとんど潰れてしまった、という。これは国内規制緩和の話だが、タイにおけるグローバリゼーションのはしりだった。
1960年代、日本に米国産飼料穀物とランドレースという白色で胴体が長くて産肉性の高いこれまた米国製の畜種が怒濤のごとく入ってきて、もともと飼われていた小規模養豚の豚が一掃されたときと状況は類似していた。農業記者に成り立ての頃で、現代畜産の現場をずいぶん取材した。ヨーさんの空っぽの畜舎をみて、同じことが繰り返されている、と痛切に感じたことを覚えている。
◆疾風怒濤の時代
90年代初頭、一見のどかに見えたタイの農村は不満が渦巻いていた。工業団地、道路、ダム建設で土地や川を失った農漁民、米タイコメ戦争で下がったままの米価、政府が進める製紙原料ユーカリの植林で井戸が涸れた村、そしてアグリビジネスに潰された養豚農民。 92年、それらの小農漁民が集まって東北タイにおける小農組織を作った。リーダーに推されたヨーさんは政府との直接交渉を意図した。(注3)
さまざまな課題を掲げた東北タイの農漁民グループが村々を発して一カ所に集まり、国道を徒歩でバンコクを目指して行進した。ヨーさんは常に先頭にいた。行進に参加する農民は1000人を超えていた。一行は東北タイから中部タイに入る境界の町に陣取り、政府に交渉を迫った。(写真)
90年代半ば、矛盾と不満はいっそう深まる。グローバル化の中で矛盾が農村ばかりでなく都市をも襲った。全国に広がった開発によってふるさとを追われた開発難民の増加と公害・自然破壊、労働災害の激増、労賃と農産物価格の低下。貧困が広がり、農民、都市労働者をおそった。スラムが地方都市にまで広がった。
95年、そうした困民が結集し、貧民連合(サマッチャー・コンチョン)が結成された。ヨーさんが率いる東北タイの小農組織は、その推進役の一角を担った。ウボンラチャタニ県のダムで立ち退きを迫られている村で開かれた結成集会には、日本からも三里塚空港建設とたたかう農民柳川秀夫が参加した。
97年、貧民連合はさまざまの要求を持ち寄り、バンコク・首相官邸前の広場に座り込んだ。(写真)その数は3000人を超え、みんな小屋がけしてそこに住み込み、長期戦の体制を作った。私も何度か泊まり込んだことがある。これらの運動の先頭には、いつもヨーさんがいた。(注4)
(注1)PP21置賜の記録は大野和興・置賜百姓交流会編『百姓は越境する』(社会評論社1991年)
(注2)このときの旅については山下惣一著『たまねぎ畑で涙して』(農文協、1990年)
(注3)米タイコメ戦争については、大野和興著『現代おコメ大研究』(柘植書房、1987年)
(注4)この時期のタイ民衆運動については『月刊オルタ』(2000年11月号、アジア太平洋資料センター刊)の特集「タイ 社会運動の底力」。執筆は大野和興、岡本和之、久世宜孝、西沢江美子。タイに腰をすえて住み着き、各地を歩き回っていたジャーナリスト岡本はこの稿でイサーン小農運動を紹介。また久世は貧民連合、西沢は女性の動きについて報告していて、いずれも貴重な歴史の断面を教えてくれる。