<追悼 バムルン・カヨター>アジアグローバリゼーションに立ち向かったタイ農民運動者(下)
1990年代、経済成長の軌跡に入ったタイ社会。多くの困難が小農民を、スラム住民を、労働者を襲った。そんな中、小農民運動のリーダーとして登場したバムルン・カヨタ―はつ年委運動の先頭に立ち、政府と対峙する。そこに、世界を覆うグローバリゼーションの波がかぶさる。「上」ではその状況を見た。
◆停滞の村、希望の村
グローバル化はタイの農業構造を大きく変えた。2007年、私は中国・雲南から船でラオス、タイ、カンボジア、ベトナムを下る旅に仲間と出かけた。5年がかりで全行程を終え、最も印象的だったことの一つは全行程でゴムの生産が激増していたことだった。グローバル化の中で自動車社会が世界に広がり、タイヤの需要が増えたことが背景にあった。ゴムの価格が急騰、東北タイでも田んぼをつぶしてゴムの苗木を植える人が増えていた。中国・雲南、ラオス、カンボジア、ベトナムでも同じ光景がみられた。
ゴムだけでなく、タイではエタノール用のトウモロコシやキャサバに切り替えられた田んぼが広がっていた。こうした工業用農作物は、買い手が多国籍の大資本がであるため、農民は発言力も情報もなく、資本のゆうがままになるしかない。農民が受け取る価格は多国籍に展開する大資本の思惑に沿って、常に変動を繰り返す。農業のグローバル化の究極の形だった。(注6)
後で述べる2023年6月のタイ村歩きの旅で、その後の状況を知りたくなり、ゴム、サトウキビ、キャサバを作る3人の農民の話を聞いた。いずれも価格は下がり、赤字続きだが、他に適当な作物もなく、作り続けているという話だった。彼らはおおむね60歳代。農業の後継ぎはいない。
その一方で、複合経営や有機農業、農産加工、それを販売する農民市場が、まだ小さい広がりではあるが、決して異端ではなく当たり前の存在として村で受け入れられている現場をみることが出来た。そこでは女性たちが元気で頑張っていた。
停滞と希望が同居するタイの村。どちらも現実だった。90年代、国家と激しくぶつかり合った小農民運動は、いま農民とNGOが手を組んで作り上げたオルタナティブ農業ネットワーク」という全国に広がる運動体に引き継がれ、複合農業や農民市場づくりなどを農民の暮らしの底辺から作る活動を展開している。
◆世代を超えて
この23年6月の旅を、83歳になった私は、最後のタイ村歩きの旅と位置づけていた。東北タイの農民と結婚し、村に住み、日タイの民衆交流の活動に献身している森本薫子さんにコーディネートと通訳をお願いし、古い友人を訪ねながら村を歩き、タイNGOと農民の新しい世代にも出合おうという欲張った旅だった。(注7)
森本さんにヨーさんにも連絡を取ってもらって、お互い年をとったので最後にバムルン・カヨタとは何者なのか、すべてを聞きたいと伝え、半日の時間をとってもらった。自身のこと、タイの社会や政治のこと、民衆の運動のこと、村のこと、農民の悩みや喜び、運動の課題、などなどいつも明確に語ってくれた往年の元気がなく、気になりながら別れた。
23年6月はタイで国政選挙の時期であった。王制を含むタイ社会に異議申し立てをする若い世代の政治勢力をどう見るか。古い友人である70代、その後を継いだ60代、さらにはその後の世代と聞いて歩いた。だれも前進党への期待を語った。古い世代を含め、タイの社会運動を担ってきた人たちは王制を乗り超えている、と思った。
だが現実には、前進党は選挙で勝ったにもかかわらず、不敬罪にとわれ、政治への参加を拒まれ、現在に至っている。それでも若い世代はめげずに運動に参加しているが、弾圧は高校生にまで及んでいる。
◆タイ民主主義の夜明けの時代に
ここまで書いて、タイの村通いの中で聞き及んだ70年代のタイ民衆運動の高揚とそれに対するすさまじい弾圧を思い出している。1996年10月、村歩きを切り上げ、バンコクのゲストハウスでゴロゴロしていたら、バンさんがやってきて、血の水曜日から20年になり、虐殺現場となったタマサート大学で記念の展示をしているから行こう、という。
タマサート大学は当時、バンコクを貫流するチャオプラヤ川沿いにあり、古いくすんだ校舎が建ち並んでいた。1972年、経済進出を強める日本経済を経済侵略ととらえて始まった日本製品不買運動は民主化運動に引き継がれ、1973年、数十万人の学生・市民がバンコクの街頭をうめた。学生と市民の連合による民主化運動の拠点となったのがこの大学だった。タイ民主主義のセンターともいえる場となっていた。
76年10月6日水曜日、軍事クーデターが起こり、軍、警察、右翼組織がキャンパスを襲い、学生に銃撃を加え、拷問し、大量殺戮を行った。いわゆる血の水曜日事件だ。
バンさんと連れだって展示会場となった教室に入ると、虐殺現場の写真や新聞記事と同時に、名刺のほぼ半分程度の紙に刷られた顔写真が張られていた。顔写真は列は教室をはみ出し、廊下に出て、また別の教室に移り、延々と続いていた。バンさんにいったい何人殺されたんだと聞くと、彼は首を振り、数えきれないとだけ答えた。死体は軍用トラックに放り込まれ、深夜のバンコクを疾走、どこかの基地の片隅に埋められたといわれているが、その場所はまだわかっていない。
73年から76年までの短い民主主義の時代、バムルン・カヨタは技術系の専門学校を出て、技師になった。学生・市民の運動に身を投じ、労働運動に取り組んだ。血の水曜日のあと軍と警察の捜査は各分野の活動家に及び、彼にも身の危険が迫っていた。活動家たちは山に入ってゲリラ活動をしていたコミュニストと合流するもの、ラオスにに逃げ込むものなど、さまざまのルートで身を隠した。ヨーさんはお寺に逃げ込んだ。敬虔な仏教国であるタイではお寺は権力の手が届きにくい場所だった。ほとぼりが冷めるまでお寺に身を隠したヨーさんは、郷里の村に帰リ、百姓になった。
キャンパスで、街頭で、山の中で、若者たちの歌が生まれた。その先頭にいたのは農民の苦しさ、楽しさ、よろこびを歌ったカラワングループだった。ボブ・ディランが歌う「風に吹かれて」に導かれ、西欧音楽とタイ農村に伝わる旋律を取り入れたカラワンの音楽に、若い世代は熱狂した。スースーバンドがその後に続いた。(注7)
73年のタイ民主革命の背後には世界中の若者の反乱があった。ベトナム反戦、米国の公民権運動、パリの街頭を舞台とした若者の反乱。日本でもベ平連が生まれ、全共闘がすべてを破壊しろと叫んでいた。これまでのようではない世界を、とアメリカでもヨーロッパでもアジアでも若者が連動していた。ヨーさんも菅野芳秀も置賜百姓交流会の面々も、三里塚の柳川秀夫も石井恒司も、みんなその渦の中にいた。
みんなバムルン・カヨタの同志だった。いつかヨーさんの短い評伝を書いてみたいと思っている。
(了)
(注5)アジアにおける工業用作物生産の実態とその意味については大野和興・西沢江美子著『食大乱の時代―“貧しさ”の連鎖の中の食』(七つ森書館、2008年)
(注6)イサーンの農村と暮らしと食、村の付き合い方など知るには森本薫子著『タイの田舎で嫁になる』(めこん、2013年)。実におもしろい本でお勧め。
(注7)イサーンの村と人、スースーとその歌については松尾康範著『イサーンの百姓たち』(めこん2004年)