マイク・タイソンの兄弟子。作家になった元世界王者
年末の大掃除をしていたら、本棚の隅にDVD「勅使河原宏の世界」を見付け、久しぶりに手に取った。勅使河原氏は、元世界ライトヘビー級王者、ホセ・トーレスのドキュメンタリーを制作している。
トーレスは、カス・ダマトの教えを受けたチャンピオンで、マイク・タイソンの兄弟子にあたる。
2009年1月19日に72歳で鬼籍に入ったホセ。私のことを「日本の息子」と呼び、可愛がってくれた。
その彼について最初に記した文章をお届けしたい。初出『PENTHOUSE-Japan 1998年9月号』
※ ホセとタイソンについて詳しくお知りになりたい方は、是非、拙著『マイノリティーの拳』(光文社電子書籍)をご覧ください。
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人は誰も、自らの定めたゴールに向かって走るのではないか。どんなに険しい道のりでも、夢を手にするために、走るのではないか。
しかし、全ての人がゴールテープを切れるわけではない。思い通りの結果を得られる人間、即ち勝利者は、ほんの一握りである。それ以外の大多数は唇を噛み締め、自らの敗北を受けとめることになる。
ホセ・トーレスは元ライトヘビー級の世界チャンピオンで、引退後、作家となった人物である。二つの世界で、共に成功を収めている。彼こそ、人生のウィナー(勝利者)であると私は思う。ずっと、彼と話をしてみたかった。
「あぁ、デラホーヤの試合会場で会ったキミか。ニューヨークに来てくれれば、いつでも時間を作るよ。寿司でも食べに行こうじゃないか」
電話で取材を申し込むと、底抜けに明るい声が返ってきた。
ニューヨークまで出向くと、彼は私の泊まるホテルまで足を運んでくれた。そして、私の部屋に入ってくるやいなや、テーブルの上に置いてあったチョコレートを見付け、アッという間に全部たいらげてしまった。
「私は、糖尿病でね。毎日インシュリンを打ってるんだ。甘い物は良くないらしいけど、堅いこと言うなよ」
そう言うと、トーレスは豪快に笑った。潰れた鼻、62歳とは思えないガッシリした体躯、大きな拳が現役時代を連想させる。
「この間の記事、読んでくれたんだね。ありがとう。デラホーヤは、今一番注目している選手だよ」
私は、トーレスが『PARADE』という雑誌に掲載した現WBC世界ウエルター級チャンピオン、オスカー・デラホーヤに関する記事を目にしていた。さらに、それ以前にモハメド・アリの伝記『…STING LIKE A BEE(訳・ハチのように刺す)』という、彼にとって初めての単行本も読んだ経験があった。彼の文章は非常に読み易く、英語力に問題を抱えながらアメリカで生活する私でも、十分楽しむことができた。
が、じっくり話してみると、トーレスは英語を母国語とする人ではなかった。
「キミは、私の文章が抜群だって、そう言いたいんだろ。ガハハハハ。でも、英語は第二外国語なんだ。私はプエルトリカンだからね」
プエルトリコとは、アメリカ合衆国の自由連合州である。公用語は英語だが、長くスペインの植民地だったため、学校教育もスペイン語で行われている。独立を要求する者、合衆国の一州としての地位を求める者、アメリカ本土に移住する者など、様々な思いを混合させながら、現在は観光地として栄える。
「1936年にブライヤ・ポンセという街で生まれた。そこにはアメリカ兵が沢山いて、皆凄くカッコ良くて、憧れてねぇ。それで、18歳で迷わず軍に入隊したんだけど、僅か2週間でそれが大きな間違いだったと気付いた。人生最大のミスだったね」
強く、大きく、逞しく写るのはユニホームを着ているからであって、人間性を高めるような訓練は何一つ成されなかった。
「それで、失望していたんだが、ある仲間に『何かスポーツでもやったらどうだ』って言われてね。ちょうどその時、ベースボールもバスケットも陸上もシーズンオフで、できるのはボクシングしかなかった。それだけの理由で、ボクサーになったんだよ」
天分に恵まれていたのだろう。軍トーナメント、カリブチャンピオンシップなど、あれよあれよと勝ち進み、56年メルボルンオリンピック代表選手となる。トーレスが合衆国を背負って闘う姿に、プエルトリコの人々は溜飲を下げた。何故なら、アメリカにおいてプエルトリカンとは、根強い差別を受けるマイノリティーだからである。
「バット・ナッピという最高の指導者に出会ったおかげで、私はどんどん力をつけていった。負ける気は全然しなかった。オリンピックの開会式は、今でも鮮明に覚えているよ。マーチングバンドの素晴らしい演奏に、心が震えたなぁ。同時にアメリカ、プエルトリコの代表である自分をとても誇りに思った。あんな感激は、それまで感じたことがなかったからね」
トーレスは檜舞台でも臆することなく勝ち上がり、決勝に進出する。
「ファイナルは1ポイント差で負けてしまったんだが、精一杯やったので悔いはなかった。金メダリストとなったのは、ラスヴィロ・パップというハンガリーの選手。彼は何と、48年52年と合わせて、五輪3連覇を成し遂げたんだ。負けて悔しい気持ちよりも、パップに対する尊敬の方が勝っていた。また、オーストラリアにも、プエルトリコから移住した人々がいて、応援してくれてね。移民のことなんて良く知らなかったし、とても嬉しかった」
五輪終了後、トーレスは軍を除隊する。そこへ、プロからの誘いが届いた。声をかけたのは、ニューヨークに住む、カス・ダマトという男だった。彼こそ、後にマイク・タイソンの義父となり、史上最年少の世界ヘビー級王者を育てる人物である。この時ダマトは、フロイド・パターソンという現役のヘビー級チャンピオンを指導していた。
「カスは、とても変わった人だった。疑い深く、人を寄せ付けないようなところがあって、生涯、結婚もしなかった。でも、ボクシングというものを本当に良く理解していた。テクニック的なことは勿論、ビジネス面も。パターソンという良きライバルにも恵まれ、充実した現役生活を送れたね」
トーレスはダマトを第二の父親と呼び、崇拝していたが、当時、ニューヨークポスト紙の記者を務めていたピート・ハミルの記事によれば、ダマトという堅物がボクシング界そのものと敵対していたがために、トーレスはチャンスに恵まれなかった、とある。
事実、彼が世界王座に就くのは、デビューから7年目の65年のことである。ピート・ハミルは、世界王者となったトーレスが既に下り坂に来ており、残された時間があまりないことを見抜いていた。
「プロでチャンピオンになった時は、それ程喜びを感じなかった。当時、28歳。子供もいたし、色々現実を見ていたからね。オリンピックの興奮の方が、遥かに上だった」
チャンピオンになる以前から、ピート・ハミルはトーレスに、ボクシングとは別の才能を感じていた。そこで、後に大作家となるハミルは、トーレスにジャーナリストとしての手解きをし、文章を書くことを勧めるのである。こうして、リングで闘うだけでなく、文章でも自己を表現できる世界チャンピオンが誕生したのだった。
「元々、ライティングが好きだったし、面白かったからね」
4度目の防衛戦に敗れ、無冠となってから2年後、トーレスはかつてのスパーリングパートナーと闘い、第1ラウンドにダウンを喫する。この瞬間、薄々感じていた衰えをハッキリと自覚したという。
「負けるはずのない選手のパンチで倒れて、あぁ、潮時だと思った。もう2度とリングに上がるべきではないだろうって。そのラウンドを凌いで、インターバルの時カスに『次のラウンドで片付ける。これが最後のファイトになるよ』と言って、一番得意なコンビネーションで相手を倒した。衰えを感じたのは辛かったけど、もう32歳になっていたし、これで十分だと。それに、実はチャンピオンになってから、昔ほど真剣に練習していなかったんだ……」
そしてトーレスはグローブをペンに持ち替え、本格的に第二の人生をスタートさせる。
「チャンピオンだった頃、ジムに二人のプエルトリカンが尋ねて来たことがあった。『あんたは我々の希望だ。オレたちは貧しくて貧しくて、何の喜びもないけど、あんたの試合を見てると力が湧くんだ』って言われたんだ。時給50セントで働いてるんだって。彼らの立場をアメリカの人々に理解してほしかったし、今度は記事で勇気づけてあげられたら、と思った」
やがてトーレスは、ニューヨークポスト紙初のスペイン語コラムニストとなる。マイノリティーとして、アメリカで虐げられながら生きるプエルトリカンは、トーレスの記事に安らぎを覚え、パワーを感じた。リングを離れても、トーレスは彼らの希望であり、チャンピオンだったのだ。
「勿論、その頃から英語でも書いていたけれど、英語の記事は実はハミルが書いてるんじゃないか、って思われていたみたいだね。ハミルとは40年近く親友として付き合っているんだが、向こうだって忙しいんだ。そんなこと出来るかって。ガハハハハ」
コラムニストとして基礎を身につけ、71年にモハメド・アリの伝記『…STING LIKE A BEE』を出版する。
「4ヵ月かかったんだけど、ボクシングよりずっとシンドかったね」
その後も、政治や社会問題をプエルトリカンという立場から、書き続けていった。
そして78年、恩師カス・ダマトの元にやって来た、当時12歳のマイク・タイソンと出会う。
「9歳から12歳の間に、51回も逮捕されたということに驚き、それ以上にタイソンの才能にビックリした。こんな子がいるのか、という程のスピードだった。彼が世界チャンピオンになることを疑う人なんていなかった。でも、当時からカスの家の外で、しょっちゅう問題を起こしていた」
トーレスはアドバイスを送りながら、タイソンに関する自身2作目の単行本、『FIRE & FEAR』を書き始める。しかし、その間にダマトは他界し、タイソンは金目当てで近付いてくる、ドン・キングや前妻のロビン・ギブンスといった輩に、いいように利用されていくのである。タイソン凋落の模様を具さに見てきたトーレスは、事実を曲げずにありのままを描き、その結果、タイソンとの関係を悪化させてしまう。
「私の気持ちをどう受け取るかは別として、彼は、歴史に残るチャンピオンなのだから、“まっとうな選択”をしてほしかったんだ。今だって、もう一度しっかりトレーニングすれば、チャンピオンに返り咲けると思う」
モノ書きなら、一度は突き当たる壁、取材対象者との距離に関する意見も実に堂々としたものである。
「ボクシングという偽りのない世界で生きて来たからこそ、ジャーナリストになれた。今後は、歴史に残るような本を書くのが目標だね。私の文章で、困っている人が救われたり、異なった文化の人々が尊敬し合えるようになるといいよね。ニューヨークでは、イタリア料理、スペイン料理、中国料理、日本料理、プエルトリコ料理など、色々な種類の食事が採れ、それぞれ、良さを認められている。国同士、民族同士の関係も、こんなふうになればいいと思っている」
陽気な笑顔の裏側に、プエルトリカンならではの、痛みや苦しみを窺わせた。
「さぁ、そろそろ寿司を食べに行こうよ。寿司!」
ジャーナリストという名のファイター、ホセ・トーレス。彼もまた、原稿用紙の上で闘い続けている。