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【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経が無断で官職を授けられ、源頼朝の逆鱗に触れたわけ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は、御家人、源氏一族、兄弟が無断で官職を受けることを禁じた。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第17回では、菅田将暉さんが演じる源義経が無断で官職を受けたが、問題はなかったのだろうか。この点を詳しく掘り下げてみよう。

■源頼朝の叙位任官

 寿永3年(1184)2月、源義経・範頼は一ノ谷の戦いで平家に勝利し、屋島へと放逐した。その後、義経は京都に入り、その治安維持を担当することになった。

 同年3月、源頼朝は正四位下に昇叙した。頼朝自身が昇叙を希望したか否か不明であるが、朝廷はその功績を認めたのはたしかなことである。

 一方、頼朝は平家を京都から放逐したことを機にして、朝廷の人事に口出しするようになった。九条兼実を摂政、氏長者にすべきことを後白河法皇に奏上したが、これは認められなかった。

 同年5月、頼朝は一族の者を国司に任じること、平家で唯一都落ちしなかった平頼盛の還任を朝廷に要望した。前者については、頼朝が東国武士団のトップにあったので、推挙する形を取ったのである。

 その結果、範頼は三河守、平賀義信が武蔵守、源広綱が駿河守にそれぞれ任官された。ただし、大いに軍功を挙げた義経だけは、任官されることはなかった。

 なぜ、頼朝が義経の任官を推挙しなかったのか、理由ははっきりしていない。また、任官されなかった義経の心情を伝える史料はない。察するに、義経に悔しい思いがあったのは予想できる。

■京都における義経

 木曽義仲が討たれたあと、京都市中の警固を担当したのが義経だった。義経は田舎者の義仲とは異なり、立ち振る舞いに問題はなかったようである。後白河は、義経に急接近した。

 先述したとおり、頼朝は朝廷人事に介入するほど、威勢が増していた。後白河は義経を重用することによって、頼朝に対抗しようと考えた可能性は大いにあろう。

 義経とともに平家追討の兵を率いた梶原景時は、頼朝に義経の讒言を行っていたという(『平家物語』)。頼朝にとって、義経は弟とはいえ、決して油断ならなかったのは事実だろう。

■義経の無断任官

 義経は頼朝の気持ちを知ってか知らずでか、ついにやらかしてしまう。同年8月、義経は頼朝に断ることなく、後白河の意思により、検非違使、左衛門尉に任じられたのである。

 頼朝は御家人どころか、同じ源氏一門や兄弟でさえも、無断で朝廷の官職を受けることを厳禁していた。特例ですら一切認めていなかったのに、義経はその禁を破ったのである。

 義経は「法皇の意思によるもので、固辞を許されずお受けしたまで」と言い逃れようとしたが、頼朝は激怒した。義経は弁解をしているが、実際は任官を望んだはずである。

 同年9月、義経は従五位下に叙され、10月には院の昇殿を許可された。義経は晴れやかな拝賀式に酔いしれたが、頼朝の怒りは収まらなかったに違いない。

 義経が後白河の庇護のもと、栄達したことは、頼朝への挑戦状であると受け取られた。以後、二人の関係はぎくしゃくどころか、悪化の一途をたどったのである。

■むすび

 義経が無断で朝廷から官職を授けられ、頼朝の勘気を蒙ったのだが、これは序章にすぎなかった。頼朝は以後の平家追討を範頼に命じたが、期待に応えられなかった。やはり、義経を起用せざるを得なかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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