3つの震災から見る大災害と刑務所
熊本の震災で、熊本刑務所が施設の一部を開放して、被災者を受け入れたり、水や食糧の提供をした。開放されたのは、職員用の武道館で、受刑者を収容する収容棟とは別の建物。252平方メートルのこの施設に、多い時には250人ほどの近隣住民が身を寄せた。このように矯正施設の一部を災害時に一般市民に避難場所を提供するのは初めてだ。食事は、これまでに中華丼、鶏飯、栗ご飯、サンマ味噌煮缶、カレーなどを提供。このほか井戸水があるため、水をもらいにくる住民もいるという。
東日本大震災の経験から
各刑務所では受刑者と職員の水や食糧を7日分ストックすることになっており、熊本刑務所(17日現在の収容者491人)では約2万食を備蓄していた。備蓄量が多いのは、受刑者は災害救助法の対象ではなく、災害時にも救助を受けられないため、刑務所側が自力で対応するしかないからだ。今回はさらに、福岡と広島の矯正管区から3万5000食を佐賀少年刑務所に運び、必要分を補充する体制をとった。両管区からは職員も派遣し、被災住民の対応に当たっている。
近隣の被災住民への支援を始めたのは、東日本大震災の際の経験が大きい。この時、法務省は被災した刑務所の支援を行うと共に、ボランティアを募って宮城県石巻市の避難所に矯正職員を派遣。物資の提供や炊き出しなどの支援を行った。日頃は受刑者対応に専念している刑務官らが、一般市民の被災者と接し、感謝されたことは得がたい体験だったらしい。一方、刑務所では災害時に受刑者に3食を提供し続けていることに、批判もあった。受刑者の心情の安定や秩序の維持のためには、食事の提供は大切。心情の安定は刑務所周辺の住民の利益にもつながるが、それが理解されず、「一般市民が食うや食わずの時に、犯罪を犯した者に3食食べさせるのはけしからん」と腹を立てた人もいた。
また、かつてはさほど人家が多くない所に建てられていた刑務所も、住宅地が広がって周囲を民家に囲まれている所も少なくない。刑務所の運営も、地域を意識せざるをえない環境にある。
刑務所と自治体が災害協定を締結
法務省幹部によると、東日本大震災後、住宅地に隣接する矯正施設で、災害時に被災した住民を受け入れる災害協定の締結を、地元自治体と協議するようになった。すでに10カ所以上の施設が協定を締結済み。熊本市と熊本刑務所も、協定を結ぶための準備を進めていた。自治会を通じて、それを住民もそれを知っていたのだろう、少なからぬ人々が刑務所を頼ってきた、という。これまで何かと迷惑施設とみられがちだった矯正施設と地域との、新しい関係がここから始まると言えるかもしれない。
熊本刑務所では、刑務作業を行う工場には蛍光灯の落下や棚が倒れたりするなどの地震の影響があったために作業は休止しているが、居住棟など施設としては大きな被害はない。刑務所の施設は堅牢に作られているせいか、これまでの各地の災害でも、甚大な被害は少ない。刑務所の近くに住んでいる方は、いざという時の逃げ場所の1つとして覚えておくといいのではないか。
1日3回鳴る非常ベルがゼロになった
日本では、災害時に刑務所で暴動や脱走などが起きたという話はまず聞かない。それどころか、まったく逆の現象も起きている。以下は、東日本大震災の時に府中刑務所の処遇部長だった手塚文哉さん(後に同所長、現在は大阪矯正管区長)から聞いた話である。
府中刑務所は、3000人近い受刑者を収容する、日本最大の刑務所で、犯罪傾向が進んだ再犯者を収容する施設。暴れたり、騒いだり、職員に反抗したり、様々な問題を起こす「処遇困難者」は少なくなく、一日平均3回は非常ベルが鳴る。暴れているために取り押さえられて保護室に入れられる受刑者も、毎日2人ほど。日本でも有数のハードな刑務所と言える。
その府中刑務所で、2011年3月11日に大地震が起きてから月末までの間、非常ベルが1回もならなかった、という。
「一番困ったのは計画停電。彼らを真っ暗な中で過ごさせるのは危険ではないかと心配で、私も含めて職員が巡回したが、誰も騒がない。本当にびっくりするほど静かだった」(手塚さん)
受刑者から義援金の申し出が……
発災時には、多くの受刑者は工場で作業中だったが、すぐに居室に戻し、テレビを見ることを許可した。普段は、番組を録画したビデオだけだが、この時には災害報道を続けているNHKの生番組を就寝時間まで見せた。その後も、しばらく災害報道は自由に見られるようにした。
「みんな、食い入るようにテレビを見ていた。日本でこんな大変なことが起きているのに、自分たちが騒いだりしちゃいけないという意識があったんでしょう」
作業が再開されるようになって、受刑者の方から「ストーブはつけなくて大丈夫です」との申し出があった。被災地でガソリンや灯油が足りず、被災者が寒さに震えているのを見て、作業場で暖房をつけるのが申し訳ないということだった。そうして節約できた灯油は、計画停電で必要になった非常用発電機の燃料として使ったという。
やはり受刑者からの申し出で、義援金の募金も行った。全国で同じような動きがあったらしい。法務省によれば、その年の6月11日までに、8235人の被収容者から合計6,169万5895円もの義援金が集まった。一人平均約7500円になる計算だ。
塀が倒壊しても誰も脱走せず
大災害と刑務所といえば、これまで最大の被害が出たのは、1923年(大正12年)の関東大震災である。元東京矯正管区長の小野義秀氏の著書『日本行刑史散策』によれば、殺人などの重大犯罪を犯した無期囚を含む長期受刑者を1295名収容していた小菅刑務所は、建物の大半は壊滅的打撃を受け、受刑者3名が死亡。塀も倒壊した。ところが、受刑者は1人も逃走することなく、職員の指示に従い、救護活動などにも参加した。ここでは、クリスチャン典獄として知られる有馬四郎助所長が、受刑者を「犯罪者」としてではなく、「人間」として処遇する方針が浸透しており、受刑者自治制も試行されていた。職員と被収容者の信頼関係が構築されていたことが、震災という非常時に生きた。
もちろん、そういう美しい話ばかりではない。豊多摩刑務所では受刑者の騒ぎが起きて、職員が抜刀して威嚇し、終いには警備の兵士が受刑者一人を射殺した。巣鴨刑務所でも、騒乱状態となって拳銃の威嚇射撃がなされている。
他に手段がなければ受刑者を「解放」
特に被害が甚大だったのは横浜刑務所で、受刑者58名、職員3名が死亡したほか、重傷者も多く出た。地震で建物が壊滅状態になったうえ、近くで出火した火災が、刑務所の倒壊した建物に燃え移り、一面が火の海に。受刑者を収容する場所はなく、備蓄していた食糧、水、寝具など全てが失われた。「解放」を叫ぶ受刑者を抑える術もないまま、椎名通蔵所長は24時間以内に戻ることを条件に、全員を解放した。
当日の収容人員は1131名。死者、重傷者を除いた1033名のうち、565人が制限時間の間に戻ってきた。遅れて帰ってくる者もいて、最終的に帰還しなかった140人ほどが、法規に基づいて「逃走」として処理された。つまり、85%ほどは逃げずに戻ってきたことになる。消火・救助活動や食糧・復旧資材の運搬、さらには多くの犠牲者を出した横浜地裁の遺体発掘などに励んだ受刑者もいて、近隣住民からは感謝される一方、数百名の受刑者が脱走し、看守から奪った刃物を持って市内で略奪や殺傷を行っているとの噂も流れ、市民は恐怖に陥った、という。
「解放」は、「天変事変」が生じて他に手段がない時に、監獄法で定めた措置。最後の最後の手段であり、戦時中の空襲のほかは、関東大震災の横浜刑務所、1934年(昭和9年)の函館大火の時に90名が解放された例があるだけ、という。今の法律(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律)でも、「地震、火災その他の災害」に際して、施設内において避難の方法がなく、他の施設に護送もできない時に、緊急措置として所長の権限で「解放することができる」と定めている。
小野氏はこれを「日本独特」であり、かつ「伝統的な制度」と評している。いざという時には「人命を尊重する」との理念は尊く、それが法制度として維持されていることは、大いに誇りとしたい。ただ、それが発動される事態にならないよう、万全の対策をしておくべきことは言うまでもない。