【戦国こぼれ話】不思議かつ複雑な戦国時代の名前。いったいどのような仕組みになっていたのだろうか
最近では子供のキラキラネームが話題だが、謎が多いのが戦国時代の名前である。姓、官途、名前の構成が複雑で、実にわかりにくい。いったいどのような仕組みになっていたのかを考えてみよう。
■「姓」と「氏」
現代人の名前は、「姓」+「名」で構成されている。「田中(姓)+花子(名)」=「田中花子」が一例であるが、戦国時代の名前はやや複雑といえよう。次に、その仕組みを考えてみよう。
そもそも今の姓と同じものは、天皇から与えられた「氏」があり、これは地名や朝廷の職掌にちなんだ同族集団のことを意味する。源氏、平氏、藤原氏、橘氏(源平藤橘)などは、その代表になる。
ところが、生まれた子供が独立すると、同じ「氏」の人物が増えすぎてわからなくなってしまう。つまり、いろいろな場所に「藤原さん」が住んでいると、それがどこの「藤原さん」なのか混乱するということだ。それは、現在でもあるのではないだろうか。
そこで、彼らは本拠とする地名などを「名字」としたのである。たとえば、播磨浦上氏は、揖保郡浦上荘(兵庫県たつの市)の「浦上」を名字とするなどだ。こうして家が分かれるたびに、子供たちは自分たちが住んだ地名を「名字」とし、混同を避けたのである。
なお、「姓」はもともと大和政権との関係や地位を示す称号のことで、国造、県主などが代表的なものである。その後、臣連制が採用され、天武天皇の時代に「八色の姓」が制定されると、「朝臣」「宿禰」など8つが定められたが、おおむね「朝臣」が主流となった。
■名前の変遷
子供から大人への名前の変遷もユニークといえよう。子供は誕生すると「~丸」などの「幼名」がつけられ(日吉丸など)、おおむね13歳以降に元服すると、烏帽子親から「~太郎」などの「仮名(けみょう)」と名前の「諱(いみな)」を授けられた(八幡太郎義家など)。
「諱」(下の名前)は父祖伝来の通り字(足利義昭なら「義」字)や主君から偏諱(へんき:主君の諱の一字)を与えられることが大半だった。逆に、足利将軍家が通り字の「義」字をほかの大名に与えることは、稀だったといってもよい。
そして、戦国時代の人々は、決して「諱」で呼ばれることがなかった。もともと「諱」は「忌み名」と書き、死後に贈られる称号だったが、のちに生前の実名を示すようになった。もともとは死後に贈られる称号なのだから、むやみやたらと「諱」で呼ばれることがなかったのだ。
それゆえ、生前は「諱」ではなく、「仮名」などで呼ばれるのが普通だった。仮名とは「諱」を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のことで、先述した「太郎」「次郎」などが用いられた。たとえば、羽柴藤吉郎秀吉の場合は、「藤吉郎」が仮名になる。
■官途とは
「官途」はもともと名前ではなく、受領(尾張守など)や京官(左大臣など)などの朝廷の官職だったが、やがて名前のようになった。現代でいうならば、会社で上司を「渡邊さん」と呼ばずに、「部長」「課長」と役職で呼ぶようなものである。
当時は、相手を「諱」で呼ぶことを避けていたので、「備前守殿」などと呼ぶようになったのだ。なお、官途は朝廷からの正式なルートで授けられることもあったが、多くの武将は父祖伝来の官途を私称していた。
仮に、ある大名が「備前守」を名乗っていても、備前支配とまったく関係ないことが多かったのである。たとえば、羽柴(豊臣)秀吉のかつての官途は「筑前守」だったが、別に筑前を支配していたわけではない。
姓名を名乗る場合は、「名字」+「仮名(あるいは官途)」+「諱」を用いていたが、口宣案(くぜんあん:官職の辞令書)には、「氏」+「姓」+「諱」といった順で記された。
ちなみに「源朝臣家康」の場合は、「みなもとのあそんいえやす」のように「氏」のあとに必ず「の」を入れて読むことになっている。
戦国時代の名前には謎が多いが、理解すれば、実におもしろい仕組みになっていたことがわかる。