震災後、3万を超える人々の安らぎの場に。その傷ついた心の声を紡ぎ、分かち合う映画『風の電話』
岩手県、大槌町にある<風の電話>の存在は知っている方も多いことだろう。2011年に大槌町在住のガーデンデザイナー、佐々木格さんが死別した従兄弟ともう一度話したいという思いから自宅の庭に設置したこの電話は、「天国につながる電話」として人々に広まり、東日本大震災以降、3万人をこえる人々が訪れているという。
映画『風の電話』は、この電話ボックスがモチーフになっている。でも、<風の電話>の成り立ちやその存在について語った映画ではない。<風の電話>へと足を運ぶ人々のさまざまな想いや声にならない声を映し出したような映画といっていいかもしれない。
震災時、『あそこにカメラを持っていきたい』と思うのはカメラマンの宿命。でも、僕は乗れなかった
手掛けたのは諏訪敦彦監督。まず、東日本大震災から9年、自身と震災の向き合い方についてこう語る。
「個人的なことでいうと、まず東日本大震災の前に、阪神淡路大震災のことから話さなくてはいけない。
当時、僕はテレビ・ディレクターで、ちょうどそのとき、坂口安吾についての番組を制作していました。坂口安吾の文学世界を映像的に表現するといったような内容でした。
ご存知の人も多いと思いますが、坂口安吾は戦争というものの巨大な破壊によって、人間の精神がどういう被害を被るのかといったことがけっこう作品のモチーフになっているところがある。そうしたことを考えているとき、阪神淡路大震災が起きて、テレビをつけると、いろいろなところが破壊されている。その瞬間、『撮りたい』という衝動にかられたんですよ。『まさにこれは坂口の作品の背景にも通じる』と思って。プロデューサーに頼み込んだら、ゴーサインが出て、家に飛んで帰って支度を始めた。
すると、妻が聞いてきた。『どこへ行くの?』と。『阪神淡路大震災を撮りに行く』というと、妻は『あなた、何考えてるの?あなたが行って何か役に立つんですか。あなたが作ってるのはただの娯楽ですよ。そのために、あなたが1人そこに取材にいって、何かの役に立つの?』と言われて、ハッと目が覚めたんですよ。『これを撮りたい』というときは、何というかな、もう人間じゃなくなっていた。ディレクターの性に突き動かされている。
ただ、ひとりの人間として『なんでそこにカメラを持っていくのか?』と問われると、わからないわけです。なにもないから。報道カメラマンというのは、何でも撮らないといけない。とにかく何か事件が起きたら、1番近くまで行けといわれているから、そこまで突進して行ってしまう。もうここから立ち入り禁止っていうところまで。ふつうの人だったら、なんでそんなことしなきゃいけないのかと思うわけです。
たとえば目の前に交通事故でケガをしている人がいたら、報道カメラマンは撮るかもしれない。でも、普通の人間はまず手を差し伸べるわけで、もし撮っている人がいたら、『なんで撮っているのか』と憤るでしょう。でも、普通の人間がふつうに感じることを停止させてやることがプロだったりする。ただ、1度停止させたら、いつでも再起動できるようにもしておかないといけない。停止したままだと、ふつうの人間に戻れなくなってしまう。実際、戻れなくなってしまう人もいるんですよね。だから、震災が起きたときに、『あそこにカメラを持っていきたい』と思うのはカメラマンの宿命。もう本能的なものだし、カメラマンには行きたい欲望が否応なしに生まれる。でも、僕はそこに乗れなかったんですよ。東日本大震災のときも同じで。その頃日本のドキュメンタリー映画は、撮っても映らないものをどう撮るか、みたいなことをわりと考えていたと思うんです。でも、それをまるでなかったことにして、いままでみたことのない風景が出現したからここぞとばかりに現地に入る。正直なことをいえば『表出したものを撮りにいけばいいというわけじゃない』と思いました。だから、僕は行かないと決めたんです。
ただ、なにかどんな形かわからないけど、震災に関することに出合ったら、見過ごさないようにしようとは思っていました。ですから、今回『これ、やりませんか』と話がきたとき、素直に『これは出合いだな』と。(その時点で)東日本大震災から8年以上が経過していて、いまはあのときと違う。だから、『今ならやれることがあるかもしれない、むしろ行ってみよう』というふうに思えた。実際に被災地にいってみると、震災の爪痕が残っているところもあるわけですけど、カメラに映るものが少なくなっている。壊れた家はもうなくて、きれいな更地や新しい家が建っている。これを撮ったところで、震災について何も映らない、何も伝えられないわけですよね。
じゃあ、何もなくなったのかっていうと、そういうわけではない。人々の心の中はそんなにきれいに片付いてるわけじゃない。ただ、それすらやっぱり簡単には映らない。
でも、簡単に映らないからこそ、今ならそれを映画にすることができるんじゃないかなと思ったんです。簡単に映ってるときは、それをフィクションでやろうと思ったら、利用することにしかならない気がするんですよね。その風景を、現実を利用して、自分が描きたい世界を作ってしまうということになりかねない。だから、ほぼ見えなくなってる今のほうが、それを映画にすることができるんじゃないか、そのひとつのシンボルが<風の電話>かもしれないなっていうふうに考えたんです」
簡単に映っているときは、利用することにしかならない気がする
震災を利用してしまう危険性をずっと抱えていたという。
「それはありました。僕は、映画って、何でも見せればいいとは思っていないんですよ」
作品は、高校生のハルが主人公。大槌町で東日本大震災に遭い、家族を失った彼女は、いまは広島にいる叔母の家で暮らしている。まだ、悲しみから立ち直れていない彼女は、ある出会いをきっかけに、ヒッチハイクで大槌町を目指す。
こちらは、ハルの目線からみえる世界と、さまざまな出会いによって彼女の心に生じる感情を体感していくことになる。そして、彼女の目に映るのは、いまの日本社会といえる。
「今回、ロケハンでいろいろなお家にお邪魔したんですけど、多くの場合、機能していたのは食卓と台所だけなんですよね。それこそ農家のお家とか大きくて部屋がいっぱいあるのに、一緒に暮らす家族がいなくなったりして生活感があるのは食卓と台所だけになってしまっている。もうそこしか日常の世界がみてとれない。だから、そこをまず起点にしようと。
そこからハルが出て、ロードムービーの形式で行く先々でいろいろなことをみたりきいたりしていく。ロードムービーですからそこでじっくりなにかをみつめるというよりは、断層をパッと輪切りにするみたいして、みえてくるものをみせようと思いました。ハルの目線を通して。ロバート・クレイマー(監督)の『ルート1/USA』を意識したところがありました。あのアメリカ社会の見せ方を。
10年ぶりにアメリカに戻った主人公が1号線をずっと縦断していく中で、たまたま出会った人たち、たまたま出会った出来事を描かれているんですけど、そこからアメリカの素顔みたいなものが表出する。そういうものになればなと」
それはどこか映画監督としての自分にも重なっていたという。
「僕にとっては日本で久々で撮る映画ですから。『ルート1/USA』はクレイマーが久しぶりにアメリカに帰って、アメリカを彼の視点で縦断してきりとった。今回は、そういう位置に自分も立ったところがあります」
被災地に限ったことではない。日本はほんとうに傷ついている
その視点にたったとき、日本はどうみえたのだろう。
「日本で暮らしてはいますけど、あらためてロケハンでいろいろなところを見て回ったときに思ったのは、ひとことでいうと『ほんとうに日本って傷ついてんいるんだな』ということ。ほんとうに、傷だらけだなと。それは被災地に限ったことではない。地方にいくと、昭和の時代にはさぞ繁盛したであろうアーケード街も、ほとんど開いてる店はない。東京にいるとそんなことを感じないんですけど、少し離れるとそういう場所がいたるところにある。世界に発信されてる、日本=東京ですけど、それは虚像だなという気がしますよね。そんなににぎやかで華やかな国じゃない。あらゆるところが閑散として荒廃して傷んでいる」
ハルの旅は広島から、埼玉のクルド人コミュニティ、福島といった行程をたどっていく。その行き先からはたとえば広島ならば原爆といったことをこちらが想起。ある意味、東日本大震災を東日本大震災の枠組みだけでとらえない、日本で起きたさまざまな出来事が等価に並べられているように映る。
「その意識はありましたね。なにが大事でなにが大事ではないとか、なにが上でなにが下とか、比較することはできない。ただ、提示していこうと。たとえばフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズが(ジャン=リュック)ゴダールの『ヒア&ゼア こことよそ』という映画について、これは『と』という映画だといったんですね。。普通の物語というのは、『何々が何々である』という文章になる。でも、『ヒア&ゼア こことよそ』は『これと、これと、これと、これと』というふうに永遠に続いていくと。
それは何かと何かにある関係を述語で語ってしまうと、それは支配的な言葉=権力になってしまうから、語ってしまわずに、永遠に提示し続けるといった主旨のことをいっている。僕もある種、同じで並べていこうと考えました。原爆、福島の原発事故、東日本大震災といったところから、誰かの日常やハルの記憶といったことまでが等しくならんでいて、それが幾重にも重なり、層となって連なる。そうなってくれたらとの思いはありましたね」
<風の電話>という場所がもつ不思議な力
その意識があるだけに、タイトルでもあり、震災のシンボリックな場所でもある<風の電話>をどう扱うかは難しかった。
「最初にみにいったとき、この電話ボックスで終わる映画ってどういう映画なんだろうかと思ったんですよね。ここでどう終わるのかほとんどみえていなかった。どう向き合えばいいのか悩みました。でも、ラストシーンを撮り終えたとき、『この映画はやはり<風の電話>の映画だっんだ』と思いました。
どういうことかというと、これはハルを演じたモトーラ世理奈の映画でもありますから、彼女がどう生きて、最後にあの場所に立つかが重要だった。最後に彼女がどのような気持ちで<風の電話>とむきあって、即興芝居でどういう言葉をつむぐのか、ラストシーンまでの日々はその道のりだったんだと。モトーラはほんとうにハルとなって、広島から岩手の大槌町まで旅をしてくれた。その経験があったから、無心で<風の電話>に入ることができた気がするんですね。
だから、あそこの芝居は即興なんだけど、実は全部書いてあるんですよ、恐らく。書かれたんです。たぶん、この映画の旅を通して、彼女の体の中に書き込まれていったものがあって、そこで反応したものが、最後に<風の電話>に入ったときに、すべて出てくる。あの言葉ひとつひとつが偽りのないものだったと思うんです。それが<風の電話>という場所のもっているひとつの不思議な力だと思うんです。
ふつうの方も、<風の電話>で、電話をかけるふりをするわけです。これは演技といっていい。ただ、嘘ではないんです。演じるということで、自分の中にある新しい感情とか、新しい気持ちを掘りおこす。そこでさまざまな想いが一気にあふれでてくることもあれば、逆に気持ちを整理できたりもする。<風の電話>はそういう気持ちにさせる空間で。同じことがモトーラ=ハルの中でも起きていたんだと思うんです。そういう意味で、この映画は<風の電話>の映画だったんだなと」
そうきくと、<風の電話>は極めて映画的な場所といえるかもしれない。
「ある種、神聖な場所になってますし、ドキュメンタリー番組などで多くの人に知られてもいる。だから、ここをフィクションで描く意味があるのかと、疑問を抱く方もいらっしゃると思うんですよ。
でも、<風の電話>をドキュメンタリーでやるのは実は難しいのではないかと思うんですよ。ドキュメンタリーの場合は、<風の電話>で話そうとする方に許可をとった時点で、もう誰にも聞かれてないふりをしなければならないという設定になってしまう。それは、結局、演じることをさらに演じることになるというか。自分のためにただ演じればいいのに、聞かれていないフリをしなければならないことで、演じ直すような形になってしまう。となると、ドキュメンタリーなのに、嘘をつかないといけないことになってしまう。
だから、<風の電話>の中で、に限っては、フィクションだからできることがあるんじゃないか、というのがモトーラのフィクションでありながらドキュメンタリーでもあるラストシーンをみて、気づいたことです」
このハルを演じたモトーラ世里奈の演技には、共演者も刺激を受けていたという。
「西島(秀俊)くんは、『彼女の演技には嘘がない』と言っていました。それは自分はそうできているかという真摯な問いでもあると思うんですよね。たぶん、傍からみると、新人のモトーラをキャリア豊富な俳優たちが支える。そういう構図に見えると思うんですけど、僕にはそうみえなかった。西島君の言葉にあるように、モトーラにみんな引っ張られたと思います。僕にはそうみえた。みんな彼女に注視して、最後はひっぱられていく。西田(敏行)さんですらそうみえた。おそらく俳優だから、彼女の中にあるすごみみたいなことが。僕にはわかりませんけど、たぶん俳優同士だからわかることがあるんだと思いますね」
今回は新たな体験になったと明かす。
「自分にとって初めての新しい体験だったのは、やはり公開。シネコンでの公開の形は初めてのこと。今まではほんとうに単館で少ない観客に支えられて、ほそぼそとやってきたわけですが、今回はショッピングモールに行って、たまたま映画館に入ったような人が『風の電話』に出会う可能性がある。実際に偶然劇場にいってみてくれた方のコメントとか聞くと、素直によかったなと思います。
別に監督の名前なんか知らなくてもいいわけです、映画は。そのことの心地よさみたいなことを不思議と感じます。誰が作ったっていう所在が問題じゃない。
これまでは自分の作品という形で基本的にスタートしてきた。でも、今回は人から与えられてはじまっている。そういう経験をしたことは自分にとって悪くなかったっていうか。自分だけではできないことをやることができた気がします。
今まではほんとうに自分の作品みたいなことにこだわりすぎていたのかもしれない。いまは、ほんとうに『私が作りました』みたいなことをあんまりいわなくてもいいと思えるんですよね。映画はみた人のものなんじゃないかっていう気がするんです。それでいいんじゃないかと。渡していくというか、監督よりみた人のものになってくれたほうがいい」
震災という大きいテーマも、個人の小さなところからはじめられる
これまで触れてこなかった東日本大震災と作品を通して向き合ったとき、どんなことを考えたのかだろうか?
「大槌町で最初の完成披露をやったときに、やはり地元の方にどういうことをいわれるのか緊張したんですね。まあ、正直『こんなのうそだよ』とか、『現実はこんなことじゃないんだよ』とか言われることも覚悟していました。舞台挨拶で、『挨拶よりは、皆さんどう思ったか、率直な意見をできたら聞かせてください』と切り出してみたんです。すると、2人、勇気を持って手を挙げてくださって。
1人の方は『いい意味で予想が裏切られました。被災者に必要以上に配慮してたりするような映画だったら嫌だなと思ってたんだけど、それは杞憂(きゆう)に終わった。そういうものはなかったし、本当に展開が読めない映画でよかった』みたいなことを。
もう1人の方は『今は大槌を離れて、高台で暮らしているけど、久しぶりにこの映画をみにここに帰ってきました。8年間、やっぱりいろいろ大変だったし、自分も独りぼっちだなと、孤独だなと感じることがあったけど、この映画を見て、自分は1人じゃないと思いました。ありがとうございました』と言ってくださったのがいまも鮮明に頭の中に残っています。
震災について何かをいう映画ではまったくない。震災からどう生き直したかというひとりの女の子を描いただけなんですけど、それが自分と無関係ではない、私もひとりではない、そういうように感じてもらえた。これはうれしかったです。
では、震災と関係ない人にとってどうなのとなると、たとえば福島でこの映画を見るのと西日本で見るのでは、やはり違う感覚が現実的にはあると思います。だけど、時間がたっていけば、そういうものも関係なくなっていくと思っている。この映画が本質的に描いてるものは、東日本だけの問題ではないと僕は思っているので。あらゆる人が傷ついているし、あらゆるところで問題は起きている。だから、東日本大震災であろうが、広島であろうが、福島であろうが、ある個人の体験としてそれらを見ようとすれば、なにか僕たちはつながることができるんではないかなというふうに思います。
たとえば、広島のあるお母さんの手記があって、それは被爆後、何十年か経ってから書かれている。息子へむけた手記で、『あの朝、おまえにご飯をつくったんだけど、あの頃はものがなかったから、粟(あわ)のご飯を炊いた。そしたら、おまえはそれ嫌いだって食べないから、厳しく叱った。そんなことを言うんじゃないと叱って、その子は泣きながら出ていった。行ってきますと言って、泣きながら出ていった。それが最後だった。あの時なんで叱ってしまったのだろう。どんな姿になってもいいから帰ってきてほしい。今だったら白いご飯をおなかいっぱい食べさせてあげるのに』と、何十年も経ってから書いているわけです。そういう気持ちって、誰でも分かる。僕でも分かる。東日本大震災となるとどうしても大きなテーマと思ってしまいますけど、こうした個人のちいさなところからはじめられる。実は、そこにこそとりあげることがあると思いましたね」
全国公開中
場面写真はすべて(C) 2020映画「風の電話」製作委員会