織田信長はなぜ早い段階で家督を子の信忠に譲ったのか? ごく当たり前の理由
大河ドラマ「どうする家康」では省略されたが、織田信長は早い段階で家督を子の信忠に譲っていた。なぜ信長は家督を譲ったのか、考えてみることにしよう。
弘治3年(1557)、織田信忠は信長の嫡男として誕生した。戦国大名の家督継承には不確定要素があるものの、順当に行けば嫡男があとを継ぐのが一般的である。
天正3年(1575)5月、信長は長篠の戦いで武田勝頼に勝利した。同年11月、信長は権大納言、次いで右近衛大将を兼ねた。同じ頃、信忠も秋田城介に任官した。一連の任官は、朝廷が信長を室町将軍に代わる存在と認めたからだろう。
同年11月28日、信長は信忠に織田家の家督を譲った。さらに、居城の岐阜城の加え、尾張、美濃といった領国、家臣の斎藤利治・河尻秀隆・林秀貞らをも信忠に与えた。とはいうものの、信長は悠々自適の隠居生活を満喫しようとしたのではない。
天正4年(1576)、信長は近江六角氏を追い出すと、安土城(滋賀県近江八幡市)の築城を開始した。丹羽長秀が普請総奉行を務め、石垣普請には坂本(同大津市)の穴太(あのう)の石工らが動員され、11ヵ国から労働者が徴集された。
安土城は六角氏の居城・観音寺城(滋賀県近江八幡市)を参考にして総石垣で築城された。こうして先述のとおり、信長は信忠に岐阜城(岐阜市)と家督などを譲り、安土城に本拠を移動した。引退どころか、政治に本腰を入れたというのが本当のところだろう。
信長が安土に移ったのには、①敵対関係にあった越後の上杉謙信への対策、②未だに勢力を持った北陸の一向一揆の監視、という2つの理由が想定されている。さらに、安土は岐阜よりも京都に近く、常に中央とのつながりを保つことができた。
信長が早い段階で家督を譲ったのは、第一に自分が生きているうちに、速やかに権力を移譲しようと考えたからに違いない。これは、信長のケースだけでなく、ほかの大名にも見られることである。翌年、信忠は信長の後継者にふさわしく、従三位・左近衛中将に任じられた。
しかし、天正10年(1582)6月2日、信忠は父の信長と同じく、京都で明智光秀に討たれた。信忠の死は信長の目論見が外れただけでなく、その後の織田家の運命を大きく変えてしまったのである。