競走中止した1頭の素質馬と、彼をめぐるホースマン達の絆の物語
勝ち負け出来ると感じた馬
1月13日の中山競馬場。ダート1800メートルの3歳新馬戦は佳境を迎えていた。逃げた1番人気馬を2頭がかわしてゴールイン。入線後にパーンしたカメラはその2頭を大写しでとらえていた。
同じ時、鞍上で「え?!」と思っていた男がいた。
「手前を変えた時に故障したと感じました」
男は木幡巧也。今年でデビュー9年目。美浦・牧光二厩舎所属のジョッキーだ。
「牧先生にはデビュー当初から厳しく育ててもらっています。今でもその関係性に変わりはありません」
そう語る彼は上位に入線した各馬から、大きく遅れた最後方。師匠が管理するダノンレジェンド産駒の牡馬・アイビーサムライオに騎乗していた。
「第一印象は立派な馬だなぁ、という感じでした」
アイビーサムライオに対し、そう述懐したのは三原章平。牧厩舎で持ち乗り厩務員をする彼は、1979年1月30日生まれだから、もう少しで45歳になる。ゲームで競馬を知り、幾つかの牧場勤務を経て、トレセン入りしたのが27歳の時。今ではベテランの域に達している彼だが「牧調教師にはよく叱られます」と言い、更に続けた。
「妥協を許さず、仕事に対して真面目な先生なので、叱られても納得出来ます」
そんな三原がアイビーサムライオに対して使った「立派」は、必ずしも文字面通りの意味ではなかった。
「とにかく大きかったので、緩いと調教で動けないだろうし、走るかどうかは正直、半信半疑という気持ちでした」
ところが、調教で跨った木幡巧也からは、嬉しい誤算とも思える評価がくだされた。
「タクヤは最初に乗った時から『良い馬です』と言ってくれました。その後、調教を進めても『普通に行けば勝ち負け出来そうです』と話していました」
木幡が裏付けする。
「大型馬なので、坂路がメインになりましたけど、動きはかなり良くて、早い時期から好勝負出来る器にあると思いました」
思わぬアクシデント
こうして順調にレース当日を迎えると、アイビーサムライオは2番人気の支持を受けた。再び木幡の弁。
「パドックの雰囲気は悪くなかったし、返し馬も問題なくこなせたので、大きな期待を持って臨む事が出来ました」
11時40分、予定通りゲートが開いた。6番枠からまずまずのスタートを切ったアイビーサムライオは、先行馬群のすぐ後ろ、4〜5番手で向こう正面へ向いた。
「そのあたりまではまだ良かったのですが、キックバックの砂を浴びたせいか、3〜4コーナーでは『あれ?』という手応えになってしまいました」
木幡がそう語るように、3コーナーを過ぎるとズルズルと下がり始めた。
「『あぁ、ダメかぁ……』って思いました」
そのシーンを見た三原はそう感じた。ただし、この時点で鞍上は止めようとはせず、むしろ激しく手を動かしていたので、故障とは思えなかった。
「だから、諦めつつ、ひと足先に下馬所へ向かいました」
こうして下馬所で待機したが、いつまで経っても我が担当馬は戻って来なかった。各馬が入線をした後も上がって来ないので、さすがに「何かあったか?!」と心配になったと言う。
正にその時、木幡は鞍上で異変を感じていた。
「手前を変えた時に故障したと感じました」
それは近くにいた他の騎手も同じように感じるほどの症状だったと言い、更に続けた。
「ゴールまであと少しなのは分かっていました。でも、将来性のある馬なので、取り返しがつかない事になるのだけは避けたくて、咄嗟に止めました」
残すところ100メートルを切っていた。それでも、入線するよりも下馬する道を選択した。いや、馬の将来を選択した。大事に至らない可能性に懸けたのだ。
結果、この判断は正しかった。骨折等の大事には至らず、若駒にありがちなソエの症状が出ただけで済んだ。
「複雑な心境です」と口を開いた木幡は続けた。
「期待していただけに残念ですけど、命がどうという事態にならなかったのは良かったです」
三原も異口同音に語る。
「戻って来ない間は心臓がドキドキして、心配しかありませんでした。競走を中止していた事は獣医さんに聞き、また心配が増しました。でも、厩舎地区で再会した時には歩様も悪くなくて、ひとまずホッとしました」
師弟の絆
また、レース後、師匠とはどんな会話をしたのかを木幡に聞くと、彼は答えた。
「牧先生も心配されていましたけど、ひとまず無事だったので安堵されていました」
ここで改めて、牧との会話について尋ねてみた。今でもよく叱られると言うが、逆に褒められる事があるのかを聞くと、次のように答えた。
「会話の中で『あれは良かった』等と言っていただける事はたまにあります。でも、改まって褒められる事はありません」
更に関係性に関し、続ける。
「牧先生は自厩舎の馬にはほとんど乗せてくれます。そればかりか、自厩舎の馬でなくても僕が乗っているレースはよく見てくれています。ごく稀にアドバイスをいただけるのですが、頭で理解しても、実践出来ない自分に対して腹が立ちます。先生は言うだけではなくて、馬の調教でも扱いでもその通りに実践出来るから、指摘された事は素直に受け止められるんです」
また、素直に受け止められる理由が他にもある、と語る。
「牧先生は昔からレースの時だけは『お前の仕事場だから』と尊重し、ほとんど全てを任せてくれます。当然、競馬の結果、勝った負けたでどうこう言われる事もありません。ある意味、それは良い時も悪い時も一緒です。ただ、日頃から厩舎での仕事に対しての準備不足や手抜きと先生が感じた時は叱られます。『まだ出来ること、考えられることがあるんじゃないか!!』と今でも叱られてばかりです」
「厳しい態度は今でも変わらない」と語る木幡に、おそらく本人の耳には入っていないであろう牧の口から漏れた言葉を記しておこう。
「最近はタクヤに助けられる事が多くなってきた」
ぼそりと、でも確かに、師匠はそう言った。
アイビーサムライオがいつ戦列復帰するかは、現時点では分からない。ただ、その時に一歩でも前へ進んでいる事、そして行く行くは厩舎を背負い、厩舎を助けるまで成長する事が、木幡巧也が期待に応える最適であり唯一の手段だろう。今後のアイビーサムライオを取り巻く人達と馬自身の活躍を願おう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)